不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

山岡鉄舟居士

一番尊敬している武士は誰かと訊かれると、私の場合は山岡鉄舟と答えています。
彼は天保7年6月10日〈1836年7月23日〉に産まれて明治21年〈1888年〉7月19日に53歳で亡くなりました。
丁度今の私と同じ年齢です。
彼は32歳の時に明治維新を迎えており、徳川幕府では幕臣として、明治以後は明治天皇の侍従として活躍しました。古い時代と新しい時代、あるいは幕府と朝廷両方を知った人物です。
禅では在家ながら印可を受けた居士であり、剣術や書道においても達人でした。明治に入ってから一刀正伝無刀流という流派を建てました。江戸時代の遺物として廃れ始めていた剣術で一流を建てたあたり、彼の気概を感じます。
山岡鉄舟の逸話については数多あるので割愛しますが、私が16年以上通っている川口市芝の長徳寺にも山岡鉄舟は若い頃に良く通い参禅していました。寺には本人が寄進した石灯籠が一対あり、坐禅会の折は必ずその脇を通るため、意識せずにはいられない武士です。
明治時代になってからも変貌した日本を見ており、明治に入ってからは幕府ではなく天皇に付き従い、かつ過去のものとなりつつあった剣術で一流を建てるなど、個人的には大変好ましい人物に感じ、常日頃から尊敬しています。

先日、この山岡鉄舟が開基した台東区谷中にある全生庵に行ってきました。山岡鉄舟が明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために創建した寺です。また、初代三遊亭圓朝の墓があり、私が参拝した8月11日には三遊亭門下が集まってイベントを行っていました。テレビでしか見たことがないような有名人もいたので驚きました。なお初代三遊亭圓朝の墓は山岡鉄舟の墓所のすぐ右脇にあります。

坐禅を始めた15,6年前に師を訪ねるために幾つかの禅寺を巡った中に全生庵もありましたが、その後数回ほど坐禅会に参加したことがあります。現在もコロナ禍から復活して通常の座禅会が行われているようです。

行った目的は寺宝である幽霊画の特別展示を観るためでした。禅宗では霊とかは存在しないというのが一般的ですが、芸術としてはあってもよいと想った次第(笑) おどろおどろしいものもあり、夏に涼を求めるにはよいと思いましたが、2,3点はため息が出るような大変美しい幽霊さんもいて感嘆いたしました。

通常は拝観料を取られるのですが、当日は三遊亭一門のイベントがあったため無料でした。
その後墓地にある山岡鉄舟の墓所に向かいましたが、すぐ脇に初代三遊亭圓朝の墓があったため、やや人が多かったよし。

今の私と同じ歳に逝去しましたが、山岡鉄舟はその歳までに幾つもの偉業や修練の結果を出していました。私などは足許にも及ばず赤面の至り、恥じること多々ありです。我が身を鼓舞するつもりで一心に参拝させていただきました。
もう少し滞在すれば三遊亭一門の落語とか行われたのかも知れませんが、かなり暑くなってきたので退散いたしました。

山岡鉄舟居士は私が生涯かけて目指すべき人物です。

令和五年葉月十七日
不動庵 碧洲齋

山岡鉄舟の墓

 

終戦78年に想うこと

先の大戦から78年が過ぎました。
終戦時に20歳だった人も98歳です。
各線戦においてある程度戦歴を重ねたベテランは多分、ほとんどが100歳を超えているでしょう。
そしてその数はもう数えるほどでしょう。
中学校時代と高校時代だったか、新聞の記事に日清戦争最後の元従軍軍人と日露戦争最後の元従軍軍人が死去したという記事を読んだことがあります。
あと20年もすれば確実に大東亜戦争の従軍経験者は全て死去すると思います。

 

思うことがあります。
前世紀終わりぐらいからだったと思いますが、日本で「戦争体験者」というとそのほとんどが戦場ではなくて、空襲被害者とか銃後の生活を語る人を指すことが多くなってきました。戦場で戦闘をした方の体験談は非常に割合が少ないですね。とはいえロシアの歴史博物館でも戦災被害者の紹介が多かったように思います。ドイツなどではどうなのでしょうか、興味があります。

 

世界ではまだ戦争が続いています。
愚かにもロシアは前世紀的な侵略戦争をこの21世紀に大々的に行っているというのですから呆れます。
大義は完全にウクライナにあり、ロシアに非がありますが、西側陣営はここぞとばかりに各種最新兵器を投入して、実験をしている風にも見えます。ロシアでも毎日500人前後の軍人が戦死していますし、多分ウクライナでも結構な数の軍人や民間人が死んでいると思います。


ほとんどの先進国や中興国でも未だに「戦死」があります。先の大戦で同盟国であったドイツでも実はあります。ドイツは国連主導の軍事作戦にも参加しているので、ごく少数ですが本当に紛争地帯で亡くなった軍人や警察官がいます。以前私はドイツ人同門で元警察官という方に、アフガニスタンで受けた銃撃ということで右胸上部の銃創を見せてもらいました。「北斗の拳」のケンシロウにある胸の傷とそっくりだったのが衝撃的でした。よく死ななかったものです。
私は湾岸戦争当時米国に留学していましたから、その町の出身の兵士が戦死した折、送葬パレードを見て衝撃を受けました。

 

翻って日本では基本的に78年間戦争がなかったので当然ながら戦死者がいません。確かに世界から観れば国連にお金だけザクザク出して、人を出さないという国は些か卑怯にも見られます。平和主義であることはいいとして、不戦主義であることは相手が敵対しないことが前提です。相手が攻撃してきてもされるがままであることが日本国憲法の本質で、拡大解釈、或いは曲解したものが自衛隊の存在です。つまり、国際間においては平和を貫くためにも普通は人が死にます。人も死なない、殺させない、武器も買わない、売らない、それで平和が保てるのはドラマだけです、いや、ドラマでも難しいでしょうか。超絶的、卓越した外交のプロが何人もいたらもしかするとかなり防げるかも知れませんが、確実に言えることは今の日本政府にそういう類の政治家はいないことははっきり断言できます。なので軍事力なくして平和は、今のところは無理なのです。

 

1万歩譲って、未だ日本が戦争について「最新」であるものもあります。それは「原爆攻撃」です。核兵器の使用は78年前の1945年8月9日以後世界のどこでも起きていません。現在に至るまで世界で広島と長崎以外で核兵器を使用されたことがありません。
昨今、広島の平和記念資料館に行った多くの外国人が強い衝撃を受けた、とか記事になっていますが、それを見て喜んでいる日本人が多いことに私はある意味衝撃を受けます。


日本国憲法前文ではしつこいぐらいに不戦と平和を謳っているのに、この78年間、日本でしか受けていない核攻撃の脅威を何も発信しなかったのですか?
これに驚きます。広島市民や長崎市民だけが声を上げても全然ダメです、全国民が発信するだけでも足りません、政府が核兵器の脅威を強く主張しなければならないはずなのに、一体全体この78年間日本人は何をしてきたのかとまずそこに呆れます。(微力すぎる自分にも自戒を込めて)
私は武門に入ってからは国際色豊かだったため、30年以上その立場を機会があれば都度主張してきましたし、SNSやインターネットでも英語でその旨繰り返し主張してきました。しかし日本人からの発信は悲しいぐらいに少ないですね。日本語で日本人相手の自国礼賛といった下品なものばかり。

 

国際社会ではやはり信念や志はある程度主張しなければ受け入れてくれません。
核兵器廃絶は間違いなく正しいことですから日本人の口から強く主張して貰いたい。
最近はYouTubeなどを見ていると、自国礼賛モノ、日本が素晴らしいところの紹介などが人気を博していますが正直吐き気を催します。外国人たちによる日本の紹介などはそれはそれでとてもありがたいのですが。

 

私の生まれ育った世代における戦争教育は、色々なところで言われているようにかなりいびつです。それは日本国憲法や自衛隊を見れば分かるように、完全にガラパゴスです。そもそも自衛隊とて日本国憲法が施行されてから4年とかからずその前身である警察予備隊が米軍の命令とは言え(これは笑えますが)設立されたことから、敗北したとは言え主要国が軍事力がない状態というのはありうべからざる状況であることは分かっていたはずですが、米国の庇護の元、最近まではだましだまし日本を運営してきました。

 

国民総動員で世界平和の為に何かしら世界に発信したいところですが、日本国民に於ける英語の普及率の低さは格別です(笑) 平和憲法を唱えながらこれですから呆れます。軍事力というのは平和維持に於ける最後で最悪のオプションであっても整備維持すべきものですが(そして今の自衛隊のそれは全然足りていない)、そもそも論で、日本人は世界で唯一行われた核攻撃の事実をよく学び、平和を訴えることをせねばなりませんが、その前に英語を話すということも含めて国際的な人とならねばならないと思います。

 

令和五年葉月十五日

不動庵 碧洲齋

 

銀河英雄伝説の言葉から

「銀河英雄伝説」において色々なキャラクターたちが政治や軍事についてなかなかおもしろいことを言っています。私はそれを書き留めたものを持っているのですが、昨今、ロシアのウクライナ侵略もあり、幾つか関連がありそうな語録をご紹介します。

 

- 政治は軍事の失敗を償うことができる。 だが、その逆は真でありえない。

*日露戦争では停戦条約のテーブルにロシアを座らせる目的で戦われました。太平洋戦争時の軍人と違って日露戦争当時の軍人たちの見識の高さはさすがです。大変失礼ながら同じ帝国軍人とは思えないほどです。ちなみに日露戦争当時の高級軍人の多くの生まれは江戸時代、ちょんまげをして刀を差して、将軍や大名に付き従って世界もほとんど知らなかったサムライたちが数十年後、世界でも最新の科学兵器に座乗して世界戦史に名を残す輝かしい戦歴を打立てました。やはりサムライという人たちは優秀だったようです。

 

- 侵略や虐殺が、狂った専制君主の野心から出たものであれば、まだ救いがある。 絶望としか言えないのは、民衆が選んだ指導者によって民衆が害される場合である。

*正直現在のプーチンがどれだけ市民に支持されているか分かりません。独立系メディアでは2-3割ではないかというところもありす。ただし実際にどん底だったロシアをそれなりのところまで高めたのも事実なので、それに奢らずにいたらプーチンもいい指導者だったのにとは思います。

 

- 「政治なんて俺達には関係ないよ。」という一言は、それを発したものに対する権利剥奪の宣告である。

*これはロシアに限った話ではなく、日本などがこれでしょうね。ロシア市民はそもそも公正な政治的権利すらありませんからその点では哀れに思います。

 

- 本来、名将と愚将との間に道義上の優劣はない。 愚将が味方を100万人殺す時、名将は敵を100万人殺す。 その差があるだけで、殺されても殺さないという絶対的平和主義の見地からすれば、どちらも大量殺人者である事に差はないのだ。

*この言葉は好きです。戦争の本質を突いているように思います。正邪ではなく、戦うことそのものが悪という考えには賛成です。

 

「人民を害する権利は、人民にしかありません。…専制政治の罪とは、人民が政治の罪悪を他人のせいにできるという点に尽きるのです。 その罪の大きさに比べれば、100人の名君の善政の功も小さなものです。」

*民主主義の本質的なことを言ってますね。先の大戦とて軍部が暴走したとか、昭和天皇が始めたとか言う人もいますが、これは立派に帝国議会で可決された事案ですから結局帝国人民が希望して始めたに過ぎません。今の日本の政治家たちも結局のところ私たちが選んでいるに過ぎませんが、もう少しマシな人材が出ないものかどうか。

 

「人間の行為の中で、何が最も卑劣で恥知らずか。 それは権力を持った人間、権力に媚びを売る人間が、安全な場所に隠れて戦争を賛美し、他人には愛国心や犠牲精神を強制して戦場に送り出すことです。」

*プーチンとゼレンスキー大統領のコントラストが印象的です。どんな危機的でも首都を離れなかったゼレンスキー大統領は素晴らしいと思う半面、プーチンはいつもテロに怯えているのは何とも情けない限りです。

 

「専制とはどういうことだ。 市民から選ばれない為政者が、権力と暴力によって市民の自由を奪い、支配することだろう。」

*ロシアにも一応選挙はありますが、全く公正でも何でもない、単なるパフォーマンスです。つまりロシアの現政権は正確にロシア国民から支持されているわけではありません。ロシア帝国時代もソ連時代も人民には政治的権利がありませんでした。ま、日本人とてその政治的権利を正しく行使している人が行ったいどれ程いるのか疑問ではありますが。

 

「政治の腐敗とは、政治家が賄賂をとることじゃない。 それは個人の腐敗であるに過ぎない。 政治家が賄賂を取ってもそれを批判することができない状態を、政治の腐敗と言うんだ。」

*これはロシアのみならず中国やその他独裁国家でもその通りで付け加えるべき言葉もありません。

 

「独裁者という名のカクテルを作るには、たくさんのエッセンスが必要でね。 独善的でもいいから揺るぎない信念と使命感、自己の正義を最大限に表現する能力、敵対者を自己の敵ではなく正義の敵とみなす主観の強さ…」

*プーチンもヒトラーもナポレオンもこれに酔って無謀な戦争をした感ありですかね。

 

「政治家とはそれほど偉いものかね。 私達は社会の生産に何ら寄与している訳ではない。 市民が納める税金を、公正かつ効率よく再分配するという任務を託されて、給料を貰ってそれに従事しているだけの存在だ。 私達はよく言っても社会機構の寄生虫でしかないのさ。 それが偉そうに見えるのは、宣伝の結果としての錯覚に過ぎんよ。」

*これはぜひとも日本の政治家たちに唱和させたい(笑)

 

ま、こんな感じです。

 

令和五年葉月十日

不動庵 碧洲齋

 

「虎の巻」は何処に

先日、海外同門から面白い質問を受けました。
「『虎の巻』はどこで見つけることができますか?」
おかしみを感じつつもなかなかに味のある質問であるとも思った次第です。

『虎の巻』とは古代から中国にて代表される兵法書、すなわち「孫子」「呉子」「尉繚子」「三略」「六韜」「司馬法」「李衛公問対」の中の「六韜」第3巻目に収められている章が「虎の巻」の出典です。六韜の名の如く全部で6章ありますが、軍隊を動かすための基本的な方法論がこの「虎の巻」に書かれています。
そこから転じて秘伝や奥義などが書かれた巻物を「虎の巻」と言うようになりました。
私は高校の時から中国史が好きだったので、もちろん兵法七書はその頃から読んでいました。ちなみに六韜の作者は前漢創建の始祖、劉邦の功臣であった張良が若い頃に黄石公という老人からもらったことになっています。実際にこの六韜は戦国時代にはすでに書かれていてよく知られた兵法書だったようです。

武芸を嗜んでいる方ならよく分かると思いますが、秘伝や奥義はいくら探し回っても決して見つかる類のものではありません。
それは全て常に自らの足下にしかないものだからです。
あるいは自分の背中に書かれている、自分の顔に書かれているものと心得ます。
せっかくそれが自らの体に浮き上がってきたのに未だ自覚できなかったり、その逆、書かれていないのに書かれているつもりになったり、色々です。

実際全くの素人が奥義や秘伝を読んでも多分ほとんどはチンプンカンプンか、意味のある言葉には感じられないはずです。
他の喩えで言えば朝起きて夕飯を食べる気にはならないのと同じでしょうか。
ふとした機を察する力、自然それを知る力が備わっての奥義、秘伝です。

私はそのように考えています。

令和五年水無月二十三日
不動庵 碧洲齋

 

國肇之地

20日に広島を出立して新幹線で大阪まで来ました。
予約していたホテルにチェックインを済ませてから現地の同門武友と会って食事。
関東以外の同門と関東以外で会うのは初めてですね、国内は。
その武友、実は気功師なんですよ。言い方合っているのかな?
要するに気功で治療をする人です。
食事をしてその帰路にちょっとやってもらいました。
年末に障子貼りをしてからどうも重い腰が治らなかったので立ったままでしたが、腰に指を当てて治療してくれました。しばらくするとビリビリとした感覚が伝わり、更に時間が経つとじんわり暖かくなります。大体20分程度でしょうか、終わったことには腰が軽くなった感じがしました。
ちなみにはっきり体感したのは翌日以降です。いや、気功本当に凄い。
彼は誰かから教わったのではなく、自然にできるようになったとのこと。
羨ましいですね。

翌日は早朝からローカル線に乗って奈良県橿原市に行きました。
橿原市は武神館先代宗家の故郷で、現宗家が若かりし頃、週末に夜行列車で千葉県野田市からここまで来て稽古を付けてもらいました。14年続きました。凄い執念です。当流の外国人門下生たちも年に1度、或いは数年に1度は来日して稽古する人がいますが本当に頭が下がります。私が外国人だったら多分日本には行かないでしょう(笑)

最初に行ったのはもちろん橿原神宮。伝説によると東征を終えて大和地方周辺の平定も終えた彦火火出見(ひこほほでみ)は紀元前660年正月1日、畝傍山が南面するこの橿原神宮がある場所で戴冠式を行い、日本国初代天皇、神武天皇となりました。爾来、今上天皇陛下は第126代にして世界最古の王族であり日本は世界最古の国家になります。2番目に古い國がデンマークでそれでも1000年ちょっとですから日本の古さがどれ程か分かろうものです。

実は橿原神宮はそれ程古い神社ではありません。創建は明治に入ってから、1890年、明治23年です。それでも戦前は官幣大社に列されていて現在も皇室から定期的に勅使が来るという神社です。
ちなみに橿原神宮が創建された時に当流の道場訓が作られました。先代宗家が何か思うところがあって書いたのでしょうか。

朝だったためまだ人も少なく、心静かに皇國と皇室の安寧、ひいては世界の平和と調和を神武天皇に祈りました。




それから北門から北上して神武天皇陵にも参拝しました。私以外はもう一組いただけでそれ以外は誰もおらず。森の香りと静寂の中に大和の国の気高さを感じました。ここは皇室の方々もよく参拝に参ります。
ここでもいつになく真剣に祈りました。どうかこの世界最古の國、大和の國をお守り下さい、戦に投じさせないでください、あまりにも真剣に祈ったので手が震えました、ま、誰も見てなかったからいいんですけど(笑) 草民の願いはきっと歴代天皇の御霊の御照覧あるべし。叶わぬはずがない、そう信じています。

それから駅の方向に引き返し、奈良県立橿原考古学 研究所附属博物館に行きました。さすが大和の地だけあって展示品の多さは素晴らしかった。時間の制約がなかったら橿原に一泊しても良いと思うくらい。古墳の数とかが尋常ではないので出土品もかなり多い。日本語どれだけ古い国か分かりますね。

橿原神宮前駅にあった看板「皇紀2700年」ですか。17年後私もぜひ祝いたいところです。

橿原之地は大和之國発祥の地であり当流の故郷でもあります。
またぜひ参りたいと思います。

これで今回の旅の記録は終わりです。

令和五年弥生二十一日
不動庵 碧洲齋

 

 

ヒロシマ

呉から一路広島に戻り、30年以上ぶりぐらいに留学時代の友人と再会しました。
留学時代、よく旅行に行った間柄でした。
天気も良かったので近くの公園で積もる話をしましたが、会った時間が15時過ぎだったので翌日の昼にまた会うことにしました。

翌朝は早朝に起きてカプセルホテルに出て、原爆ドームと平和記念公園を散策後に平和記念資料館に行きました。

早朝の原爆ドーム





原爆ドームは朝と言うこともあり、太陽の光と影の差し方が印象的でした。広島市民には見慣れた光景なのでしょうけど、やはり観光客には重々しく感じます。
多く写真を撮ってから平和記念公園の方に向って歩き、途中、原爆の子の像や平和の灯、原爆死没者慰霊碑を回ってから平和記念資料館に行きました。
原爆死没者慰霊碑では早朝から多くの人が手を合わせていました。私も懇ろに手を合わせました。多くの外国人観光客も来ており、皆例外なくこの世界で最初に核攻撃を受けた都市の遺産を見ていました。

「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」
有名な原爆死没者慰霊碑の句です。昔はこの言葉が嫌いでした。原爆を落としたのは日本人ではないのに何故日本人がこんな事を書かねばならないのかと。今は理解します。主語は私たち人類全部です。この句はどこか1ヶ国と言った小さなことを言っているのではありません。人類全体がこの過ちを繰り返してはいけないと誓っていることがよく分かります。そしてそれは日本人が率先して行わねばならないとも思いました。

広島平和記念資料館

開館30分以上前に来たのですが、資料館には既に100メートル近い列が並んでおり、開館時は私の後ろは反対側の国際会議場までずっと並んでいました。
個人的に個々の入場システムはちょっとアナログすぎます。券売機とかそういうものを用意するとか窓口を増やすなどした方が良いと思いましたが。しかし一度にたくさん入れないようにする工夫だったらこれでもいいのかと思いました。

原爆資料館という博物館は多分かなり特殊です。人の死がありありと映し出されています。それでも私が高校時代に訪れたときはもっと悲惨な写真や資料がありましたが今はかなりマイルドな表現になっているように思います。それでもほとんどの人が黙って静かにそれらの資料を食い入るように見ていました。この静けさは多分、ここだけだと思います。

噴水には虹が架かっていました

最後は国立広島原爆死没 者追悼平和祈念館に行きました。特に何かあるわけではありませんが、犠牲者を悼んだ大きな円形のホールです。壁にはその方位にある町名が明記されています。

国立広島原爆死没 者追悼平和祈念館

1945年末までに14万人が死亡、そして現在まで30万人とも40万人とも言われていますが、要するに78年前に落とされた原爆は今でも人を殺しているということです。
ライフル銃や戦車、軍艦、軍用機などはもしかしたらその国の尊厳や人民、利益、国土などは守るためには有効かも知れません。しかし核兵器はそうではありません。核兵器はそういう小さな定義ではない、もっと人類にとって重要なものを破壊してしまいます。真の意味で核兵器保有国の核は決して保有国を守ることはありません。我々人類が核兵器を廃絶させるべき理由はまさにここにあると私は考えます。

広島と書くと普通の地名ですが、ヒロシマと書いたとき、それはHiroshimaでもあり反核運動の旗手たる都市の名前になります。
現在まで世界で唯一、2回も核攻撃を受けた日本は、世界にその残虐性をもっと知らしめる使命があります。日本人しか知らないこの恐ろしさを可能な限り世界に紹介すべきだと私は思っています。
私は世界中の人々と交流を持っている方ですが、その大半は日本人以上に無知です。核保有国の国民ですら信じがたい程に無知であることが多い。これには何度も恐怖した経験があります。まあこれが人類ですと言えばそれまでですが、核兵器は諦観するにはあまりにも恐ろしすぎるシロモノです。日本人はもっとそれを自覚した方がいいと痛感します。

昨今、ウクライナ侵攻もあって日本も核武装を、という主張が以前よりも散見されます。
個人的には原子力潜水艦や原子力空母などはあっても良いと思いますが、大量破壊兵器たる核兵器にはやはり反対です。

核兵器は人類の未来にとって、いかなる理由でもメリットはありません。

令和五年弥生二十日
不動庵 碧洲齋

戦艦大和の故郷

福山市を早朝に発ち、一路新幹線で広島駅に向かい、そこからローカル線で呉市に向かいました。
かの戦艦大和が建造された地ということで「宇宙戦艦ヤマト」の音楽を聴きながら気分を爆上げしました(笑) ちなみに呉駅のメロディーはもちろん「宇宙戦艦ヤマト」です(笑)
意外に呉の駅前は結構大きな都市でしたが、予定していた「歴史が見える丘」までは微妙に遠く、歩けないことはないものの結構時間がかかるということでタクシーを利用しました。
さすが観光地のタクシーということで色々教えてくれましたが、この日は多くの潜水艦が帰港しているので、歴史の見える丘の先にある潜水艦桟橋にも行った方がいいと勧めるのでそうしました。

まずは歴史の見える丘、西に面した造船ドックが一望できる丘ですが、その前を走る県道487号線の上に掛かっている歩道橋の突き当たりまで行くと更によく見えます。
わが目を疑ったのはなんと空母に改装中の護衛艦「かが」、本当に空母に改装されていて艦首は現在台形から四角になってしまっていました。子供の頃は良くプラモデルを作っていましたが、日本はもう二度と航空母艦を保有することはないんだなと、子供心に痛みを覚えていました。さすがに私も「おお~!」と声を上げてしまいました。まさか日本が再び空母を保有できるとは歓喜に耐えませんが、同時に日本を取り巻く国際情勢はそこまで緊迫しているのかと不安もよぎります。

護衛艦かが、空母に改装中。歩道橋端からドックまでたった150mの距離。戦艦大和が進水後、ここに移されて艤装されました。

戦艦大和が建造された屋根付きドック。現在ドックは埋め立てられてブロック船体の製造工場になっています。高い屋根部分は戦時中のもの。

この「かが」が改装されているドックこそ、戦艦大和が進水後に艤装工事のために使われたドックとのこと。「かが」もかなり巨大な艦体のはずですが、それでもこのドッグにはまだまだ余裕があります。それもそのはずで排水量ベースでは戦艦大和は「かが」の3倍にもなります。このドックは軍艦用のドックである証拠として深い。左隣のドックは浅かった。更にその左隣にある巨大な屋根を有したドックがかつて大和が進水したドックとのこと。現在ドックは埋め立てられていて、ブロック工法による船体部分の製造工場になっているとのこと。それでも船艦を建造したドックだけあって超巨大です。なお、写真の屋根が高くなっている部分は戦時中から使われているそのままのものだそうです。現在は何十万トンのタンカーでもブロック工法で作れば数ヶ月で出来上がってしまうそうです。
ちなみにこのポイントはドックから200mと離れていないため、本当に至近に見えます。
この場所で大和が建造されたという事実にヒシヒシと一人感動に浸っていました。

その次にタクシーに連れて行ってもらったところはそこから僅か1.5kmほど南に下ったところにある潜水艦桟橋。丘から下る辺りに海自の基地が見えるので多くの海自艦艇が見えます。ただあいにく車を止められる場所はありません。
潜水艦桟橋に止まって驚きました、なんと潜水艦が合計7隻も停泊しています。
1隻だけ離れた桟橋に停泊していましたが、それはつい数日前に除籍になったおやしお型潜水艦のネームシップ、おやしおでした。25年間も任務に就いていました。それ以外の桟橋には合計6隻の潜水艦が停泊しており、1隻だけそうりゅう型、それ以外はおやしお型でした。艦橋の形状が異なるので目印になります。大体知っていましたがやはり通常動力型潜水艦だけあって小さい。排水量は3000トンです。とはいえ異形の黒塗りの潜水艦が6隻も停泊しているのは見ものです。日本に潜水艦基地は呉と横須賀にしかありませんが、横須賀の方は米軍基地と共用なのでこんな至近で見ることができません。Gマップで計測したら一番手前の潜水艦までの距離は大体100mとなっていました。イヤイヤ、それ軍隊としてどうなの?って嬉しかったですが不安に思いました。タクシーのドライバーさんもさすがに「かが」の改装といい、潜水艦の係留といい、ここまで無防備なのはマズいでしょうとのことでした。

潜水艦桟橋、ホントに潜水艦が至近で見えます

現役の潜水艦左奥がそうりゅう型でそれ以外はおやしお型。こちらもわずか120m程度の距離。国防機密的観点からはどうなんでしょう?

数日前に除籍になったばかりの「おやしお型」1番艦「おやしお」

そこから大和ミュージアムに向かいました。歴史の見える丘経由潜水艦桟橋往復で3000円未満で行けます。もしタクシーを利用するのであればこの2箇所は必ずセットで行った方がいいです。

大和ミュージアムに行く前に昼食を食べたく思い、人気の店「ハイカラ食堂」に行ってみましたが・・・1時間以上は待たねばならないとのことで諦めました。残念。しかし近くに食べられそうなところもないので止むなくフェリー乗り場にあったコンビニで食べ物を買って食べました。
それから気を取り直して大和ミュージアム。まず入館する前に先週、駐車場に設置された巨大旋盤を見に行きました。この旋盤は戦艦大和の主砲砲身を削り出した旋盤です。しかもつい最近まで使われていました。驚きです。また、使われていたところからここまで運ぶのに1億円ぐらいかかるためクラウドファンディングを募ったところ、大幅に上回る2億円も集まり、結果、立派な展示室も作れたとのこと。旋盤はコンテナートレーラーに積載できる程度の大きさですが、多分重量的にはもっと重いでしょうかね。名前からするとドイツ製のようです。(先ほどネットで調べたら219トンだとか)しばらく感動していましたが・・・。

大和主砲砲身を切削した旋盤

ガラス張りの展示室のためなかなか全体像を撮影するのが難しい

大和ミュージアムの海に面した広場を見ると何やら催し物をしています。よく聞くとそれは「呉かき祭り」でした。生がきや焼きかきなどが販売されていて、お弁当なども売っていました。知っていたらコンビニなんかで買わなかったのに・・・悔しかったので焼きがきを5個食べました。いや、ホントにおいしかった。ちなみに焼いていたのは本物の漁師さんたちです。この人前日は特別に漁に出ずイベントに参加していたとのこと。好天だったので結構な賑わいでした。

大和ミュージアム全景、結構大きい建物です

客は凄く多かった。子供も大人も等しく感銘を受けていた。

焼きがきは大変おいしかった。

戦艦大和については正直今更ながら改めて知ったという知識はそれほど多くはなく、また、実際に沈没した大和から引き上げられた遺物も少ないため驚きは少なかったのですが、やはり1/10の大和は迫力あった。
零戦や特殊潜航艇、そしてかなり珍しい人間魚雷回天の試作艇もありました。

大迫力の1/10戦艦大和 最終改装時 かなり精巧に作られています

今回はあまり時間がなく、じっくり見ることが叶いませんでしたが、次回来ることがあればたっぷり一日かけて呉を堪能したいところです。

令和五年弥生十九日
不動庵 碧洲齋