不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

シーシュポスの岩か三昧か

ここ最近、ご縁あって時折、座禅会に通っている寺の作務をしています。
格式ある禅寺で、僧堂があってもおかしくないほど大きな寺院です。
寺には老師以下2人の常住がいますが、それ以外にも週末は4-6人ぐらいのお坊さんが近隣から法事の手伝いにやってくるほどです。
そういうことで境内は大変広く、手の空いている僧侶たちが作務をしても手入れしきれないほど。人が入りそうな大きな落葉収集用バッグに一杯落葉や抜いた雑草を入れて裏手の捨て場に1日何度も往復します。往復300m以上でしょうか。これが落葉の季節になったらと思うと今から恐ろしくなります(笑)
落葉は箒で掃いているそばから落ちてきます。雑草も1日で伸びるものもあります。境内の隠れたところなどは落ち葉が堆積していたりします。もちろん墓地区域にも落葉はあります。そう言うところをせっせと掃除をするわけです。切りがないというのか終わりがないというのか。作務に行くと毎回同じ事をします。

シーシュポスの岩というのは神話です。シーシュポスは聖書にも出てくる、現在もギリシャにその名を残す都市コリントスの創建者として知られています。詳細は省きますがそのシーシュポスは神々を2度にも亘って欺いたとしてゼウスよりタルタロスというところで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられました。しかしその岩は頂上まであと一歩という所で転がり落ち、何度運んでも頂上にたどり着けません。日本で言えば賽の河原の積み石のようなものでしょうか。永遠に終わることのない苦しみを表現する時にこの神話が翌引き合いに出されます。

このシーシュポスの苦しみは一体どこから発せられるのでしょうか。
何を以てこの行為、天罰が苦しみなのでしょうか。
私はこう考えます。
シーシュポスは天罰を与えられる前の幸せだった自分と今の苦しんでいる自分を較べてしまった。
シーシュポスはこれから何度もその岩を持ち上げる苦痛を想像してしまった。
シーシュポスはその岩が山頂に近いところで必ず転がり落とされることを予想してしまった。
シーシュポスは今までその岩を持ち上げてきた回数と時間を数えてしまった。
シーシュポスは後どのくらいこの神罰が続くのだろうと考えてしまった。
シーシュポスは神を畏れぬ愚行を悔いた。
シーシュポスはこの天罰から解放されるかもしれない自分を想像してしまった。
これがシーシュポスの岩に例えられる苦しみの根源だと思います。
シーシュポスは岩を持ち上げて山頂まで持っていく行為そのものではなく、それに付随する想念を持ってしまい、それこそが彼を苦しませているのだと思います。
彼は今目の前の事態ではなく、悔やむべき過去や未明の恐ろしい未来を思い描いてしまいました。
彼がこの事態を相対的な視点で見てしまったが故の苦しみだと思います。

禅では「三昧」という状態があります。コトバンクによると「雑念を離れて心を一つの対象に集中し、散乱しない状態」を指します。
臨済宗のサイトにある定義では「公案工夫が熟し、深く禅定に入って、心身一如の状態になること。」です。
心を「今」「ここ」にある「行為」だけに集中して、その行為そのものに成り切ること。その行為や事態を「対象化」「客観化」せず、そのものと融合すること。これが三昧だと私は理解します。
つまり過去も未来もなく、彼我もなく、対象もなく、そのものと一体化する。今行っていることそのものに心を溶け込ませる。
対象物がなくなると彼我がなくなり、時間がなくなり、世界がなくなります、多分(笑) その行為に徹し尽くす、徹底する。
三昧世界に入ると苦しみがなくなります。私の師の言い方をすれば「苦しみが苦しみを苦しんでいる」という状態。この状態の中には「自我」がありません。そのものがそのものを成しているのです。だから苦しみがあっても苦しみにはならないのです。静寂の中で静寂を聴く、あるいは甘味の中で甘味を味わう、そんな感じでしょうか。つまり絶対的視点に立つという事です。
当然ながらそこには苦しみも悲しみも絶望もありません。私が理解する三昧はそのような境涯です。
修行はそのような境涯に没入するための修行ではないかと思います。
寺の境内の庭掃除も然り。庭の広さ、作業の多さ、時間の長さ、気候の暑さ、自分の境遇などをスッカリ忘れて作業に徹底して三昧に入る、これが理想的な修行ではないでしょうか。

ふと広大な境内の庭を掃除しながらそんなことを考えていました。
いや、そんなことを考えながら作務をしていては修行になりませんね(笑)

令和六年卯月十五日
不動庵 碧洲齋

作務中の1枚、手前の建物が坐禅をする禅堂、奥は開山堂