不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

坂の上の雲

先週からNHKオンデマンドでスペシャルドラマ「坂の上の雲」を視聴しました。
元々はスペシャル大河ドラマと名付けられる予定だったようなので、テイストは大河ドラマそのものです。


2009年から2011年まで足掛け3年、1話90分で13話が放送されました。普通の大河ドラマが45分なので、大河ドラマで言えば26話分ぐらいでしょうか。普通の大河ドラマの半分程度の長さですが、出演者の豪華さと物語の濃さは随一です。
比較的予算を掛けずにリアルなVFXを導入するなど、革新的な試みが随所に見られるものの、NHKならではの高額な予算投入もあり大変見応えのあるドラマでした。
私はリアルタイムで全部観ることができなかったので、以前も一度オンデマンドで視聴しましたが、再度観ても感動は薄れません。

徒然少し書き散らかします。

 

渡辺謙のやや長めのナレーション、あれだけでお金を払ってもいいと思えるほどです(笑)


「まことに小さな国が」と言っていますが、19世紀、欧米以外の世界で「国」を維持できていた国自体が恐ろしく少なかったことは容易に想像できると思います。アフリカでは19世紀に独立していた国はリベリアとエチオピアの2ヶ国、アジアでは日本とタイと中国ですが当時の清国はすでに欧米列強に蚕食されていました。南米はどうでしょうか。アルゼンチンやブラジルなど比較的独立国はあったようです。


つまり欧米諸国以外に「完全に独立していた国」というのは多分10指にあまるかどうかという、そんな程度でした。白色人種ではない国がそのくらいということです。その中で維新後の日本は多分、それらの国と比較して経済力や科学力が秀でていたとは思えません。ただし私が見たところ、欧米以外の独立国のみならず、欧米諸国と比較しても日本が圧倒的だったのは教育レベルではなかったかと思います。


簡単に言えば識字率。江戸の識字率は学者によっては60から80%とばらつきがありますが、先日目からウロコの動画を見ました。それは江戸時代、江戸の人口の半分は武士、つまり識字率100%です。残りの町民の識字率が7割だったとしても合計すると軽く80%に達します。地方ではもう少し低いでしょうが、明治半ば、イギリスが義務教育を施行する前の識字率が3割強だったことを考えると日本の識字率は世界的に見ても異常に高かったことが伺えます。

 

また、日清日露戦争時、中級上級指揮官は青年のころはちょんまげをして刀を差して着物を着て大名や将軍と言った殿様に頭を下げる旧態依然とした社会で生きていました。それが数十年後には蒸気機関エンジンを搭載して電信機や巨砲を装備した世界でも最新鋭鋼鉄艦の艦隊を指揮して、海戦の歴史も数も数倍優る敵艦隊を完全撃破したのですから、彼らは一体どんな教育を受けてきたのかと思いを馳せます。


「坂の上の雲」では軍人のみならず政治家の活躍にも大変スポットが当てられています。国内世論、国際世論、外交、財政、経済など、戦時中のさまざまな難問を見事にクリアしています。少し前まで鎖国していた国の国民とは思えないほど。
明治時代は侍や知識階級がいち早く欧米列強から学び始め、しかし市民はまだ封建社会の草民の気質が残っていた良いタイミングだったのかもしれません。

 

良いタイミングと言えば日露戦争では陸軍でも海軍でも神がかっているという感じがします。もちろんそれは日本の政府や財界人、軍人たちが奮闘した結果生み出された神のタイミングだったのかも知れませんが、日本にとっての好機が幾つも積み重なることが出来る様はやはり日本は神の御加護を受けていると思わざるを得ないほどです。

 

もちろん明治時代が市民にとって楽な時代だったとは思えません。江戸幕府から近代的な政府に変わり、40年足らずの間に国家間戦争が2回もあるなど、重税を課せられた市民は今とは比べものにならないほど塗炭の苦しみにあったと想像します。それでも耐えられたのは封建社会の考えが残っていたり、新聞を通じて日本がどれだけ危うい状況に置かれているか理解できたからだと想像します。

 

ロシア帝国はこの手痛い敗北や戦前から日本が行っていた諜報活動によって共産主義者たちによって崩壊してソビエト社会主義連邦になっていきますが、皮肉なことに日本も戦後わずか10数年後には日本にも共産党が創立されるなど、やはり市民にとっていくら国家のためとは言え重税を搾取されるような社会よりは当時は楽園に見えた共産主義に傾く人は多かったと想像します。幸い日本は日本共産党をうまく抑え込み、現在に至るまでこの政党は存続しています。一定数は共産主義がいいと思う人はいるのでしょう。ちなみに欧米の多くの国では共産党結成は非合法なようなので、日本はかなり「自由」だと言えます。皮肉っぽくなりますが。

 

江戸時代末期頃には既に電信、テレグラムはあり、恐るべき早さで遥か遠くから情報が届けられてはいましたがまだまだ情報の大半は紙に書かれた情報が人の手によって届けられていました。戦国時代よりは遥かに発達したとは言っても、まだ電信が補足的なツールであった以上、結局コミュニケーションに求められるのは送信者と受信者の配慮や洞察力、想像力、記憶力といった人間力だったと思います。

 

私たちは今、先の太平洋戦争時に於ける日本軍のお粗末過ぎる情報戦を嗤いますが、私たちもITツール無しに一体どれ程のコミュニケーション能力があるのか考えると決して笑えません。明治時代人、つまり江戸時代に産まれた人たちの洞察力、推察力、想像力、記憶力というのは多分、我々のそれを遥かに凌駕していると思います。

 

妻の祖父母は少し前に100歳で他界しましたが、生前、幼少の頃にいた老人たちは恐らく江戸時代に産まれた人もいたと思いますが、一体どんな人たちでしたか?と尋ねたことがあります。曰く姿かたちは私たちと全く変わりなかったけど、まるで別人種のように思うことがあったと。どんな寒くても暑くてもそういうことはおくびにも出さず優雅な所作で、生活の知恵はもちろんのこと、諸芸に関してもどんな人でも最低限は身に付けていて大変賢かったそうです。西洋文明の洗礼を受けるというのはそういう知恵を失うことなのかと考える今日この頃です。

 

令和五年臘月二十五日
不動庵 碧洲齋

私が尊敬する東郷平八郎を演じる渡哲也さん、シブかった。

 

パリピ孔明最終回

先ほど「パリピ孔明」最終回を視聴いたしました。なかなか胸打つものがありました。
私はかれこれ40年近く諸葛孔明を尊敬してきましたから、こんなあり得ないフィクションドラマでも感銘を受ける方です。
アニメはサマーソニア前で終わってしまいましたが、ドラマではサマーソニアまででした。原作もここまでなのでしょうか?機会があったらマンガも読んでみたいと思います。
それにしても各話における歌手たちの歌唱シーン、ドラマとは思えないクオリティーで驚きます。
また上白石萌歌さんの歌唱力も素晴らしいですね。

最終話の中で全てを暴露されて倒れ込んでいた前園ケイジに孔明が言い放った言葉がありました。

原典:非学無以広才、非志無以学。
書下し文:学ぶにあらざれば以て才を広むるなく、志あるにあらざれば以て学を成すなし。
現代語訳:学ばなかったならば才能を発揮できないし、志がなかったならば学問を完成させられない。

これは諸葛孔明が自分の子供に送った手紙の一節です。全文は以前の私のブログに掲載してありますのでよかったらご覧下さい。
https://bunbu-fudoan.hatenablog.com/entry/2021/06/29/%E8%AB%B8%E8%91%9B%E5%AD%94%E6%98%8E%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99_%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%92

意外にも別段特別なことを言っているわけではありませんが、それが諸葛孔明らしいところです。当たり前の事を非凡に行う、これが彼の真骨頂ではないかと思うのです。私も若い頃はもっと特殊技能を磨きたいと思ったものですが、重歳して分かったことは平凡なことを非凡に行う方がよほど世の役に立つということです。もちろん非凡な才能を持った人もいますが、恐らくそういう人は平凡なことに於いても非凡だと思うのです。
私のような凡人にはとても及ばない境涯ですが、平凡なことを非凡に行うことは実践する内に何か得るものがあると感じます。

令和五年霜月晦日
不動庵 碧洲齋

向井さんの孔明はとても魅力的でした。

 

ゴジラ -1.0

短期間に同じ映画を2回も観るケースは滅多にありません、もちろん。
しかしこの「ゴジラ -1.0」はそれ程までに大変面白い作品でした。
実写、アニメ問わずゴジラ映画の中では多分一番おもしろかったと思います。
ストーリーがゴジラでなくとも楽しめる作品というレベルでしたが、大戦時の各種兵器が多く出てきたのがミリタリーマニアにはたまりませんでした。
なるべくネタバレ回避しますが、ネタバレもあるかもしれません。
今回は登場兵器について(笑)

まず時代設定ですが、現代ではないところが絶望的とすら言えます。
現代であればかなり多くの攻撃オプションが選べますが、終戦からわずか2年後の日本です。
既に帝国陸海軍は解体されていて、しかも国を守る自衛隊どころかその前身である警察予備隊すら組織されていないという絶望的状況。駐留している米軍はソ連を刺激しないために大規模な軍事行動は起こせないということでしたが・・・イヤイヤここまで異常事態なんだからちょっとは手を貸せよ、って思いました(笑) ただ戦後2年ですから戦時体制だった軍隊からは徴用兵達はどんどん除隊させていったと思うので、米軍の軍事力も余り当てにはならなかったと想像します。

冒頭の零戦、動いているのはVFXだと思いますが、木戸島に着陸する際の主脚がリアルでした。250キロ爆弾を抱えた零戦が着陸するのできちんと主脚の油圧サスペンションが稼働していました。これが稼働している映像は初めて見ましたね。また、主脚が下ろされるときも機体によって左右どちらかが先に出るらしいのですが、それも折り込んでいる辺り大変凝っていました。

また日本兵たちが帰国する際に登場していた2等輸送船もリアルでした。2等輸送船は日本版戦車揚陸艦ですが、終戦後のため、艦橋左右に設置されていた3連装25mm機関銃が取り外されて、そのスペースには物資が積み込まれていたあたりがリアルでした。私はこの輸送艦が好きなんですよ。

帰国後、市民たちが穴の空いた鍋を直している姿も見ましたが、終戦直後の焼け野原の日本の様子が生々しかったように思います。典子さんが見ず知らずの赤子を託されましたが、私の母方の祖母も同じ事をしました。その時既に未就学の娘ふたりと男の子の赤子がいたにもかかわらず、戦災孤児の女の子を家族にしました。残念ながら祖父は戦死したため女手ひとつで育てたため家は大変貧しく、いわゆるサンヤ界隈に住んでいましたがそれでも大人になるまで立派に育てました。(私の母は次女です)

敷島さんが機雷除去でちょっと生活にゆとりが出てきてから買ったバイク、あれは本物でしょうかね。私はロシアの戦争博物館で戦時中の日本国産バイクを2台ほど見ましたが、全く同じでした。ギアシフトレバーが燃料タンク横に付いているんですよ。劇中でもちゃんと操作していたから戦時中だと陸王というバイクが有名ですね。神木隆之介くんはバイクの運転もできるのかな?

さてゴジラが現れて、軍隊もない米軍もない状況下で、未だ処分されていない旧帝国軍の兵器を一部返してくれるということで続々現れた旧日本海軍艦艇。トップバッターは重巡高雄。主人公たちが乗った掃海艇がゴジラと戦っていて間一髪の所でシンガポールから回航されてきた高雄の主砲がゴジラを直撃します。結構損害を与えたものの結局は撃沈されてしまうのですが、死力を尽した砲撃、ゼロ距離射撃による砲撃など、この辺りは大変素晴らしい描写になっていました。私もこのシーンは好きですね。史実では高雄は艦尾が大破していて動かせる状況ではなかったものの、取り敢えず戦争を生き抜いた船でした。形状が現在のイージス艦に似ていることから結構人気の巡洋艦です。

作中の高雄の画像がなかったので、これは実際の高雄の写真

その後、ゴジラ撃退作戦「わだつみ作戦」のために集められた旧日本軍駆逐艦が4隻。古い順に峯風型「夕風」、吹雪型「響」、陽炎型「雪風」そして松型「欅」。史実でもこの4隻は戦争を生き抜いています。雪風ですよ、あの有名な雪風。雪風がいるだけで何とかなってしまいそうな気分でした(笑) 史実ではこの頃は多分、砲塔は撤去されていたと思いますが、作中では砲塔はあって砲身がない状態でした。魚雷発射管もありました。機銃だけは撤去されていました。結局作戦のために夕風と欅は撃沈されますが、雪風と響は残ります。出撃前の停泊時、1回だけ夕風の艦体に「YUKIKAZE」と描かれている場面がありました(笑) 私は軍艦が好きなのですぐ分かりましたが。それ以外はディティールまで結構凝ったVFXでしたね。当然ながら作戦のために艦体後部は資材積載のために大改造されていて、砲塔も撤去されていたようです。

で、出港直前にゴジラ襲撃を受けそうになった折に活躍したのがこれまた旧帝国陸軍の四式中戦車チト。現実では数両が試作、量産されたに過ぎませんでした。口径も75mmですから高雄の主砲に較べたらマメ鉄砲です。それでもこのような形で出てきたのですから感動ものです。実際、ごく最近まで稼働していた旧日本陸軍の軽戦車があったそうです。砲塔は撤去されて車体だけですが建設作業機械として使われていたというのですから驚きです。

最後のトリですね。試作局地戦闘機「震電」です、はい(笑) まさかのまさか、ここで出てくるとは思いませんでした。で、映画のために作られた実物大模型は福岡県筑前町立大刀洗平和記念館に展示されていることが最近ネタバレになりました。私も是非行ってみたいですね。映画の中では数機が試作でありながら実戦配備されていたという設定、いいですねぇ~。ただ机の上に乗っていた30mm機関砲の弾帯がちょっとサイズ違い(笑) 実物の30mm機関砲弾はざっくり500mlペットボトルぐらいの大きさです。映画のは多分弾丸部分だけだったようなショボい感じでした。
搭載した爆弾の大きさもちょっとおかしい(笑) 4門の機関砲を全部外しても250キロ爆弾積めるかどうか。それに胴体部分に500キロ爆弾って、小さい戦闘機にそんなの積めないって(笑)
仮に積んだらメチャクチャ鈍重な動きになるはず。
まあ、ゴジラへの攻撃がよかったのでいいですけど。あ、実物の震電にはない装備がありましたね。ドイツ製のあれ(笑) Me262にでも装備されていたんですかね。

プラモデルメーカーのハセガワからゴジラ-1.0仕様の震電が販売されているようです(笑)

あと兵器ではありませんが、典子さんが乗車していた戦後間もなくの山手線の車輌がリアルでした。音も懐かしい感じの音です。その頃の山手線は現在の大阪の阪急線のようなチョコレート色だったんですね。街並みもかなりリアリティーがあったのでゴジラ出現はトラウマ級でした。

かなり長くなりました(笑)

令和五年霜月二十日
不動庵 碧洲齋

柴堆三国志

私は高校1年生の時から三国志が好きでしたが、中でも一番好きだったのが・・・曹操(笑) 劉備はあまり好きではないです。曹操は軍人、政治家、文人、父親として劉備よりもはるかに器が大きく優秀でしたので。既にその頃から中国では曹操や始皇帝について再評価され始めた頃でした。なのでマンガ「蒼天航路」や「キングダム」が人気を博しているのはとても嬉しいですね。

 

とはいえ・・・何と言っても別格なのが諸葛孔明。冷静に考えると三国の中で一番小さな国に就職したというのは、ある意味自分の手腕を試したいという野心があったからではないでしょうか、大人になってから気付きましたが。しかしそういうのは好きですね。そうは言っても彼が残した手紙や兵法書、実績を鑑みるに清廉潔癖だったことは間違いなく、天下を取れそうにない国の為に奔走する姿は見事です。

 

日本では少し前から「if戦記」とか「架空戦記」なるジャンルが大変人気を博しています。前者だと檜山良昭先生の「アメリカ本土決戦」とかが有名ですし、後者だと荒巻義雄先生の「紺碧の艦隊」「旭日の艦隊」が有名ですね。どれもなかなかおもしろく読み応えあります。歴史にIFはありませんが、これはこれで楽しめるものです。

 

最近話題になっている作品の一つが「パリピ孔明」。これはジャンルで言えばSFなのか架空(戦記?)なのか(笑) 話がぶっ飛んでいますが、アニメも実写もなかなかこれが面白い、ま、私の孔明びいきと言うのもありますが。実は孔明が出てくる「三国志」にも「if戦記」あるいは「架空戦記」があるのです。ご存じでしたか?名前は「柴堆三国志」。「柴堆」の意味は柴が積まれた様子ですが、うろ覚えだと柴狩りに行った次いで、仲間とくだらない話をしたとか、そんな感じだったと思いますが違ったら済みません。

 

どんな内容かと言えば、やっぱり孔明が五丈原で病没した後、三顧の礼の時の昼寝から目覚めるのですが、前世の記憶があるのでそれを利用して復活戦を挑むというお話し。当然ながら蜀の国はブッチギリで強く、魏の国や呉の国を軽々と(でもないか)打ち破って劉備が見事に中華平定して後漢王朝の正統継承王朝を打立てるというお話しです(笑) 史実の孔明の奥さんは結構な醜女だったそうですが、「柴堆三国志」では絶世の美女で前世と違ってヲタク気質の夫に大変理解があり、本人も発明ヲタクっていうのが妙に印象深かった(笑)

 

「パリピ孔明」を描いた四葉夕卜先生はこの「柴堆三国志」をご存じだったのでしょうか。日本でも読みやすい「柴堆三国志」が複数出ているはずなので読んでいるような気がします。三国志ファンの方、結構面白いので是非一度読んでみてください。

 

令和五年霜月八日

不動庵 碧洲齋

 

古の故郷

古くからその苗字を名乗っていた場合、その苗字は元々地名であった可能性が高いという話を以前YouTubeで見たことがありました。それで数日前からふと思い出してちょっと調べてみようと思った次第です。

我が中代一族は鎌倉時代は三浦氏の流れを汲む石井長勝という方の家臣でした。残念ながら北条氏に敗れた後は三浦氏一門であった石井長勝は凋落していましたが、当時新興宗教だった(笑)日蓮上人にぞっこんになり自分の屋敷まで寺として寄進してしまったほどのめり込んだようです、新興宗教は今も昔も恐ろしい(笑)。なお、石井長勝が寄進した寺は今でも鎌倉にあり、日蓮宗長勝寺としてなかなか大きな規模を誇っています。 

ちなみに祖父の代まで本当に日蓮宗でしたから700年以上も帰依していたんですね。日蓮上人が鎌倉松葉ヶ谷で某他宗派の信者さんたちから襲撃を受けた折、石井長勝以下主立った家臣たちが日蓮上人を救い出して下総国若宮(現在の千葉県市川市)に住んでいた弟子の富木常忍の館(現在の日蓮宗法華経寺)に避難したとされますが、恐らくこの時に石井長勝以下、主な家臣であった牧野氏、田島氏、別系石井氏、そして我が中代氏も日蓮上人を警護していて、その後近くに移住したと考えられます。以後現在の江戸川区鹿骨は現在に至るまで中代の故郷となっています中代家の墓所も江戸川区鹿骨の日蓮宗寺院にあります。
ちなみに父は母が他界した折、なるべく近所の霊園が良いと言うことで自宅近所の真言宗のお寺に墓を建て、私は20年以上臨済宗と、日蓮宗の信者さんたちからは白眼視されそうです(笑)

三浦半島あたりで「なかだい」という地名を探してみました。いや、ネットは本当に便利です。すぐ見つかりました。現在は他の町に編入されていて、町名にもなっていないようですが、三浦半島の本当に東端、防衛大学校の南1kmぐらいのところに「中台」という地名がヒットしました。昔ですから漢字などは割に緩い使い方で時折変わることもあったようですから「なかだい」という読み方が重要ではないでしょうか。最寄駅が浦賀です。市で言うと横須賀市になります。本当にあるとは思いませんでした(笑) 
なお、他の主要家臣である牧野氏、田島氏についても調べましたがありました。これは鎌倉を挟んで反対側で、田島は小田原市東部、牧野は神奈川県北部相模原市に牧野という地名があります。

史跡などを見ると中代氏は牧野氏・田島氏・中代氏の順で記されていることからこれは勢力の大きさの序列ではないかと思います。実際Googleマップで見ても牧野という土地が一番広く、その次が田島、中代/中台は防衛大学校や観音崎岬から南側程度の広さで、牧野・田島に較べるとずいぶん小さい領域です。

しかし一方で別の見方もできます。牧野氏、田島氏に較べると中代氏は三浦半島にあるのでもしかすると牧野氏、田島氏よりもずっと以前から三浦半島に住んでいて、三浦氏にも初期の頃から仕えていたのではないでしょうか。三浦氏初代が三浦為通で、前九年の役で功績があったので三浦半島辺りを所領として与えられ、平から三浦になったようなので、牧野氏、田島氏を従えたのは少なくとも前九年の役が終わった1062年以後と考えられます。しかし中代についてはまさにその三浦半島に元々いた恐らく有力氏族だったため、直後から臣従したと考えられます。ということは臣従歴は牧野氏、田島氏より古いのかも知れません、勝手な想像ですが。

日蓮上人ご一行がどのように下総国若宮ま避難したのか不明ですが、海路であったのなら三浦半島を経由しますから安全だったでしょうし、特に中代氏の所領だったと思われる観音崎岬あたりを通りますから安全だったはずです。と、勝手に想像しているだけですが。

760年も昔のことですが、やはり自分の先祖について調べるのは血が騒ぐものですね。時間があったらもっとよく調べてみたいと思います。

令和五年神無月十七日
不動庵 碧洲齋

古い時代の中代家の墓石

 

義に還る

私が尊敬する人物の中にユダヤ人に関わった人が2人います。
1人は杉原千畝領事、もう1人は樋口季一郎将軍。共に昭和時代の大日本帝国官僚です。
どちらも本国がナチスドイツと同盟を結ばんとしているときにユダヤ人たちを避難させるために日本入国のビザを発行したり、当時同盟国であった満州国と日本を通過させる許可を与えたりして欧州諸国から逃げてきた多くのユダヤ人を救いました。当然ながら本国政府はかなりご立腹で、杉原領事は戦後長い間、政府から無視し続けられてきました。樋口将軍がユダヤ人に対する避難を援助し始めたのは1938年頃ですが、政府が樋口少将の行動を問題視したものの、当時彼の上司であった東条英機は樋口少将を支持しました。私の祖父は東条英機と親交があり、終戦時までによく家を訪れて幾つかの書を遺したほどでしたが、戦後家の安全のためにそれらはずべて焼却されてしまったそうです。以前親族の集まりで叔父がぼそっと「東条さんは世間で言われているような悪い人ではなかったんだがなぁ」と言っていたのがとても印象的でした。

人種も宗教も違う、当時国を持たなかったユダヤ人を国策に反してまで2度救ったこの事実に、私は彼らもまた、国を失った他の民族がいたらに温かい手を差し伸べてほしいと期待しました。イスラエル国の歴史(ユダヤ人の歴史ではない)を見ればどの国に責任があるか一目瞭然ですが、それはどこであれユダヤ人たちにもっと調和と寛容を期待したかった。
他国への侵略やテロは決して許されるべきではありませんが、その民族の民が調和と寛容を尊んでいれば大抵の問題は片付くものだと、私は割と本気で信じています。日本でも戦争はありましたから日本だけ汚れなき地位というわけではありませんが、少なくとも直近80年近くは戦争をしていません。これから先ずっと戦争をしない訳にはいかないと思いますが、隣国に中国、ロシア、北朝鮮があるというある意味かなり恐ろしい地理条件であるにもかかわらず、平和というか不戦を維持してきた努力はひとえに日本人の努力の賜だと思っています。だからと言って憲法9条がいいというわけではなく、もちろん憲法は改正されるべきだとは思っていますが。

友人に少なからぬ数のユダヤ人、あるいはイスラエル人がいますが、中には閉口するようなナショナリストもいます。先日などは日本で行われたイスラエル支持のデモの動画を私に送り付けてくるような愚か者がいました。私はこういう手合いは大嫌いです。留学時代には中東の留学生と結構中が良く、彼らの文化にも親しみました。個人的には中東の問題、あるいはイスラエルとその周辺の問題は自業自得と思わなくもありませんが、他宗教や文化に寛容ではないことはあまりいい結果を生まないと思います。もっともそれは日本でも今後そのような問題が深刻化するかもしれないので日本だったらうまくクリアするとは思えませんが。日本は過去にも琉球民族やアイヌ民族に対してイスラエルのことを言えないほどに差別してきた歴史もありますからやはり日本も傷を持つには違いありませんが、取り敢えず現代ではほとんど大きな問題にはなっていません(多分)。イスラエルとガザ地区の人々やイスラエルに弾圧されている人々もこのようになってくれないものかと常々思います。

私は(多分多くの人もそうだと思いますが)どちらかが完全に悪いなどと言う状況は滅多にないと思います。絶対悪と絶対正義というものは昨今のアニメや特撮ヒーローものにさえ存在しません。なので政治について私はあまり語りたくありませんが、私は大勢の人が殺されているということに批判はしても、ガザ地区側、イスラエル側、どちらにも問題があると思っています。強いて言うならガザ地区がイスラエルによって支配されている以上は若干、イスラエルの責任が大きいように思うだけです。

 

令和五年神無月十五日

不動庵 碧洲齋

杉原領事(左)と樋口将軍(右)

 

武道と忍法

武道という言葉は実は明治時代になってから作られた造語です。それ以前は武芸とか武術とか、そんな感じで呼ばれていました。作られたきっかけは、明治時代になって西洋式軍制が採用され、いわゆる武士の兵法は不要になったため。そもそも戦国時代以後、大規模な戦が起きておらず、武士の兵法は戦国時代の戦術的な練兵操法から、江戸時代を通じて精神的な修養に昇華されていたため、実際の戦闘には不向きになってきた事実は否めません。西洋の近代的軍制の方が遥かに戦争には向いていると言えます。

しかしながら武芸は明治になってよいこともありました。武芸は幕末から武士以外でも学ぶことができましたがあくまでそれは外野というか、聴講生のような非正式門下生というものが多かったようです。実際にはそれは建前で、町人や農民の中でも大変優れた武芸者は多く輩出していましたが、江戸時代までは一応武芸は武士のものとされていました。それが明治時代になり、一般人にも道場の門戸が開放され、正式に学ぶことができるようになったことです。武士の哲学は恐れながらも親しまれ、かつ尊敬されていた故に、明治になってからも武芸を学びたいという人は多かったようです。もちろん新政府を打ち立てた元武士だった政治家たちも新国家に相応しい人材を育成するために武士道を積極的に教育の一環として採用していた点も大きいと思います。

そんな中で武芸をもっと高めたいという向きがあり、茶道や華道のように「道」を付けてみては、という向きになった。元々武道という単語はあったようですが、それは主に「武士道」を指していたようです。改まって「武道」を掲げたのは、維新によって職を失い、惨めに興行的な武術を披露して食いつないでいる武士がいたため、それとは一線を画して古来からの武芸を正統に継承する意味で「武道」を使ったのだと思います。実際にそれは現代に於いても大変敬意を持たれる対象ですから、一応改名して正解だったと思います。

 

一方で忍法という言葉があります。甲賀流忍法とか伊賀流忍法というやつですね。驚く勿れ、この「忍法」、できたのは昭和時代で作成者も分かっていて、かの有名な作家、吉川英治だそうです。戦前、昭和の初期の作品に使われたのが初出だと言われています。これは驚きですね。もちろん「忍者」というのも明治から昭和初期にかけて作られた造語です。それ以前は各藩や幕府でさまざまな言い方がされていて、忍術という言葉さえほとんど使われていなかった由。武士も現代では例えば宮本武蔵などは超有名ですが、彼が有名になったのは明治時代に劇や読み物などです。忍者も同じく、今我々がイメージしているような忍者もやはり明治時代のものです。真田十勇士なども成立自体が江戸後期で、やはり知名度が上がったのは明治時代。講談などによってです。

実際に江戸時代の忍びのミッションと戦国時代のミッションでは結構違いがあることは想像が付くと思いますが、それはもう今のイメージとはかなり違い、忍者ファンの皆様には申し訳ないぐらいで(笑) 例えば戦忍びなどは特殊な銃器で狙撃兵の任を請け負ったり、もちろん特殊部隊のようなミッションをこなしたりしていたようですが、戦国時代なのでそれはもう死亡率がかなり高かったようです。江戸時代になればなったで、経済や政治などを理解できる高い知性を求められたりしたようです。コッソリ忍び込んだり、独自の道具を使うよりは、汎用的な意味で幅広く情報を収集、科学的、論理的に分析ができる忍びが重宝されたようですが、最近ネットで見た歴史学者さんの話ではあの尾張藩ですら5.6人しか採用していなかったと言うほど。確かに平和な時代ではあまり必要ないですね。

吉川英治先生が忍びの術に「法」を付けた辺り、俄然文学的センスが光ります。「道」ではないんですね。とはいえこの「法」が付いたお陰で本来の忍術が何やら妖術じみたものになってしまったとも言われていますが。「法」は仏教用語の「法」ダルマでしょうか。武術とは一線を画したえげつない、盗賊とも取られかねない技術を駆使してミッションをこなすわけですから道ではなくて人として守るべき法という意味で吉川英治先生は法を採用したのではないかと思った次第です。私はこの新しい造語は結構好きです。

私が好きな忍びは松之草村小八兵衛さんです。これは実在して、徳川光圀公に仕えた忍びです。藩内で盗賊をしていたところ、捕まってどういう経緯かご公儀の忍びになりました。実際にお墓もあります。ドラマ「水戸黄門」でもご一行に忍者がいますが、実際にも優秀な忍びを使っていたのは興味深いですね。よかったら調べてみて下さい。

 

令和五年長月二十日

不動庵 碧洲齋