不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

古の故郷

古くからその苗字を名乗っていた場合、その苗字は元々地名であった可能性が高いという話を以前YouTubeで見たことがありました。それで数日前からふと思い出してちょっと調べてみようと思った次第です。

我が中代一族は鎌倉時代は三浦氏の流れを汲む石井長勝という方の家臣でした。残念ながら北条氏に敗れた後は三浦氏一門であった石井長勝は凋落していましたが、当時新興宗教だった(笑)日蓮上人にぞっこんになり自分の屋敷まで寺として寄進してしまったほどのめり込んだようです、新興宗教は今も昔も恐ろしい(笑)。なお、石井長勝が寄進した寺は今でも鎌倉にあり、日蓮宗長勝寺としてなかなか大きな規模を誇っています。 

ちなみに祖父の代まで本当に日蓮宗でしたから700年以上も帰依していたんですね。日蓮上人が鎌倉松葉ヶ谷で某他宗派の信者さんたちから襲撃を受けた折、石井長勝以下主立った家臣たちが日蓮上人を救い出して下総国若宮(現在の千葉県市川市)に住んでいた弟子の富木常忍の館(現在の日蓮宗法華経寺)に避難したとされますが、恐らくこの時に石井長勝以下、主な家臣であった牧野氏、田島氏、別系石井氏、そして我が中代氏も日蓮上人を警護していて、その後近くに移住したと考えられます。以後現在の江戸川区鹿骨は現在に至るまで中代の故郷となっています中代家の墓所も江戸川区鹿骨の日蓮宗寺院にあります。
ちなみに父は母が他界した折、なるべく近所の霊園が良いと言うことで自宅近所の真言宗のお寺に墓を建て、私は20年以上臨済宗と、日蓮宗の信者さんたちからは白眼視されそうです(笑)

三浦半島あたりで「なかだい」という地名を探してみました。いや、ネットは本当に便利です。すぐ見つかりました。現在は他の町に編入されていて、町名にもなっていないようですが、三浦半島の本当に東端、防衛大学校の南1kmぐらいのところに「中台」という地名がヒットしました。昔ですから漢字などは割に緩い使い方で時折変わることもあったようですから「なかだい」という読み方が重要ではないでしょうか。最寄駅が浦賀です。市で言うと横須賀市になります。本当にあるとは思いませんでした(笑) 
なお、他の主要家臣である牧野氏、田島氏についても調べましたがありました。これは鎌倉を挟んで反対側で、田島は小田原市東部、牧野は神奈川県北部相模原市に牧野という地名があります。

史跡などを見ると中代氏は牧野氏・田島氏・中代氏の順で記されていることからこれは勢力の大きさの序列ではないかと思います。実際Googleマップで見ても牧野という土地が一番広く、その次が田島、中代/中台は防衛大学校や観音崎岬から南側程度の広さで、牧野・田島に較べるとずいぶん小さい領域です。

しかし一方で別の見方もできます。牧野氏、田島氏に較べると中代氏は三浦半島にあるのでもしかすると牧野氏、田島氏よりもずっと以前から三浦半島に住んでいて、三浦氏にも初期の頃から仕えていたのではないでしょうか。三浦氏初代が三浦為通で、前九年の役で功績があったので三浦半島辺りを所領として与えられ、平から三浦になったようなので、牧野氏、田島氏を従えたのは少なくとも前九年の役が終わった1062年以後と考えられます。しかし中代についてはまさにその三浦半島に元々いた恐らく有力氏族だったため、直後から臣従したと考えられます。ということは臣従歴は牧野氏、田島氏より古いのかも知れません、勝手な想像ですが。

日蓮上人ご一行がどのように下総国若宮ま避難したのか不明ですが、海路であったのなら三浦半島を経由しますから安全だったでしょうし、特に中代氏の所領だったと思われる観音崎岬あたりを通りますから安全だったはずです。と、勝手に想像しているだけですが。

760年も昔のことですが、やはり自分の先祖について調べるのは血が騒ぐものですね。時間があったらもっとよく調べてみたいと思います。

令和五年神無月十七日
不動庵 碧洲齋

古い時代の中代家の墓石