不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

武道と忍法

武道という言葉は実は明治時代になってから作られた造語です。それ以前は武芸とか武術とか、そんな感じで呼ばれていました。作られたきっかけは、明治時代になって西洋式軍制が採用され、いわゆる武士の兵法は不要になったため。そもそも戦国時代以後、大規模な戦が起きておらず、武士の兵法は戦国時代の戦術的な練兵操法から、江戸時代を通じて精神的な修養に昇華されていたため、実際の戦闘には不向きになってきた事実は否めません。西洋の近代的軍制の方が遥かに戦争には向いていると言えます。

しかしながら武芸は明治になってよいこともありました。武芸は幕末から武士以外でも学ぶことができましたがあくまでそれは外野というか、聴講生のような非正式門下生というものが多かったようです。実際にはそれは建前で、町人や農民の中でも大変優れた武芸者は多く輩出していましたが、江戸時代までは一応武芸は武士のものとされていました。それが明治時代になり、一般人にも道場の門戸が開放され、正式に学ぶことができるようになったことです。武士の哲学は恐れながらも親しまれ、かつ尊敬されていた故に、明治になってからも武芸を学びたいという人は多かったようです。もちろん新政府を打ち立てた元武士だった政治家たちも新国家に相応しい人材を育成するために武士道を積極的に教育の一環として採用していた点も大きいと思います。

そんな中で武芸をもっと高めたいという向きがあり、茶道や華道のように「道」を付けてみては、という向きになった。元々武道という単語はあったようですが、それは主に「武士道」を指していたようです。改まって「武道」を掲げたのは、維新によって職を失い、惨めに興行的な武術を披露して食いつないでいる武士がいたため、それとは一線を画して古来からの武芸を正統に継承する意味で「武道」を使ったのだと思います。実際にそれは現代に於いても大変敬意を持たれる対象ですから、一応改名して正解だったと思います。

 

一方で忍法という言葉があります。甲賀流忍法とか伊賀流忍法というやつですね。驚く勿れ、この「忍法」、できたのは昭和時代で作成者も分かっていて、かの有名な作家、吉川英治だそうです。戦前、昭和の初期の作品に使われたのが初出だと言われています。これは驚きですね。もちろん「忍者」というのも明治から昭和初期にかけて作られた造語です。それ以前は各藩や幕府でさまざまな言い方がされていて、忍術という言葉さえほとんど使われていなかった由。武士も現代では例えば宮本武蔵などは超有名ですが、彼が有名になったのは明治時代に劇や読み物などです。忍者も同じく、今我々がイメージしているような忍者もやはり明治時代のものです。真田十勇士なども成立自体が江戸後期で、やはり知名度が上がったのは明治時代。講談などによってです。

実際に江戸時代の忍びのミッションと戦国時代のミッションでは結構違いがあることは想像が付くと思いますが、それはもう今のイメージとはかなり違い、忍者ファンの皆様には申し訳ないぐらいで(笑) 例えば戦忍びなどは特殊な銃器で狙撃兵の任を請け負ったり、もちろん特殊部隊のようなミッションをこなしたりしていたようですが、戦国時代なのでそれはもう死亡率がかなり高かったようです。江戸時代になればなったで、経済や政治などを理解できる高い知性を求められたりしたようです。コッソリ忍び込んだり、独自の道具を使うよりは、汎用的な意味で幅広く情報を収集、科学的、論理的に分析ができる忍びが重宝されたようですが、最近ネットで見た歴史学者さんの話ではあの尾張藩ですら5.6人しか採用していなかったと言うほど。確かに平和な時代ではあまり必要ないですね。

吉川英治先生が忍びの術に「法」を付けた辺り、俄然文学的センスが光ります。「道」ではないんですね。とはいえこの「法」が付いたお陰で本来の忍術が何やら妖術じみたものになってしまったとも言われていますが。「法」は仏教用語の「法」ダルマでしょうか。武術とは一線を画したえげつない、盗賊とも取られかねない技術を駆使してミッションをこなすわけですから道ではなくて人として守るべき法という意味で吉川英治先生は法を採用したのではないかと思った次第です。私はこの新しい造語は結構好きです。

私が好きな忍びは松之草村小八兵衛さんです。これは実在して、徳川光圀公に仕えた忍びです。藩内で盗賊をしていたところ、捕まってどういう経緯かご公儀の忍びになりました。実際にお墓もあります。ドラマ「水戸黄門」でもご一行に忍者がいますが、実際にも優秀な忍びを使っていたのは興味深いですね。よかったら調べてみて下さい。

 

令和五年長月二十日

不動庵 碧洲齋