不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

滋賀県竜王町

今回、弾丸ツアーで参った先は滋賀県竜王町にある臨済宗妙心寺派のお寺で「観音寺」。
ここの住職とはフェイスブックで知り合いました。
年齢も同じで学んでいる武芸も同じ流れを汲み、何となく気に掛かったので私からリクエストを出して友誼を結びましたが、それがいつだったか余りに昔過ぎて思い出せなかったので探したところ(あまりに古いと友人リストにもFBFになった日付は掲載されないようです)2012年9月3日でした(笑) 10年以上になりますかね。その頃、フェイスブックには日本人はまだ少なく、9割ぐらいは外国人の友人でした。その中で日本人のFBFでしかも雲水ですからかなり目立ちました。

住職は当時花園大学の仏教学部で教鞭を取っており、現在も他の大学で仏教学を教えているため、以後今に至るまで仏教に関するあらゆる事を質問してきましたが、実は今回訪問するまで直接会ったことがありませんでした(笑) FBではそういうことは良くあります。特に私の場合は外国人の友人が多いので尚更です。とはいえ今は1000人を超えるFBFと言えども半分はリア友です(笑)

今回どうしても会いたくなったので意を決して参ることにしました。
海外旅行は年に2.3回とか行く方ですが、国内旅行で関東甲信越と妻の実家がある愛知県以外に行ったのはもう何年ぶりでしょうか、という感じです。

10日朝、近江八幡駅で待ち合わせて初めて会うことができました。
やはりSNSは偉大ですね。互いに初めて会うのに初めて会った気がしませんでした(笑)

観光らしい観光は安土城跡と昼食を食べになかなか趣のある古民家を改造して作ったレストランぐらいで、後は寺でずっと話し込みました。

住職には美人の弟子がいます(笑) 九星気学占術をする方なのですが、今回思う処あってこのお弟子さんにもいろいろ観てもらいたく思った次第。普通占いは星占いの石井ゆかりさん以外はほとんど見向きもしないのですが、今回は特に占って欲しいと思った次第です。ここ数年、私の身の周りではさまざまな変化があり、自身の変化が求められていることは明白と感じ今まで会わなかった、会うことが無かった人とは可能な限り会うように心掛けてきましたが、自分がこれだと思った道筋が正しいのかどうか、占ったもらいたかったというのはあります。結果的には自分が感じていた本能の声とほぼ同じで、時期的なものがはっきり分かったので大収穫でした。九星気学というのは占いと言うよりは統計確率的なアドバイスに近いと感じましたね。インチキ臭い占いではありません。そもそも私は美人の助言には割と素直に聞く方です(笑) ご希望の方は下記HPにて。

私は神社仏閣に行くのが好きなので、結構多くの寺を見てきましたが、境内を見るとその寺の住職の人となりが結構分かります。観音寺は小高い丘の上にあり境内そのものは小さい方ですが、ホッとするような清廉な寺の佇まいです。ただきれいに掃き清められている寺は多くありますが、それだけではない風格の寺院は決して多くはありません。掃き清められた以上のところに住職の人柄が表われるものです。また南側が開けていて、大きな池があります。残念ながら気候変動の為と思われる変化で蓮の花が全滅してしまったようですが、寺の居ずまいは清浄で、大変素晴らしいものでした。なにより私は関東南部の人間なので、少し先を見渡すと山々が見えるというのは何にも変えがたい感動です。車で移動中にも常に山が見える環境は羨ましい限りです。

もちろん禅寺なので座禅会も開催されています。下記HPからご覧下さい。

天守閣跡から西湖を見る。大変美しい景色でした。

実は私、恥ずかしながらつい最近まで安土城がどこにあったのか知りませんでした。大阪城や江戸城と違って安土城は「城跡」なのでそれ程意識していなかったのかも知れませんが、私淑している織田信長の居城の場所を知らなかったとは恥ずかしい限り。場所は観音寺からそう遠くない場所にあり、早速連れて行ってもらいましたが、なるほど作られた場所はなかなかの要衝でした。現在では干拓が進んで安土城のある山の周囲は田畑ですが、当時は山の半島ののような場所にあったようです。

あの有名な六角形をした天守閣があった場所。残っている作りも独特です。

現在は麓にあるこれまた臨済宗の寺、総見寺が城跡を管理していますが、この総見寺がある場所はまだ当時若かった徳川家康の邸宅があったところに建っています。参道を挟んだ反対側は羽柴秀吉の邸宅でした。いや~歴史を感じますね。あの独特の天守閣に通じる石段と現在残っている石垣を見ると結構作りが雑です。雑というか戦国の城だなと思いました(笑) 現在現存していたり、再建された城の石垣のような美しさはありません。ちょっと巨大な石垣群があるという感じです。ただぶっ飛んだのは石段のあちこちに寺から徴発してきた石仏が使われていたこと。人の足で踏みつけられる石段に石仏が埋め込まれています。それも一つ二つという数ではありません。これでは信長公、殺されても仕方ないですな、と思った次第です。今度はもっと時間を取ってゆっくり観光をしたいところです。

石段のあちこちにある石仏、他では見られない異様さです。

令和四年臘月十二日
不動庵 碧洲齋

 

観音寺HP

www.kannonzenji.com

成道会

成道会、とはお釈迦様が意を決してブッダガヤの菩提樹の下で12月1日から7日まで坐禅をして、8日目の朝、明けの明星を見た時に偉大なる悟りを開かれたことを祝う日です。
その追体験をするという事で禅宗の各僧堂では毎朝2時から夜の12時まで、坐禅と参禅だけをするという、僧堂の修行で最も厳しい修行期間です。命取りの接心とか言われます。

そういうことで毎年、私が通う長徳寺では12月1日から7日まで、連続して座禅会が行われます。
時間は19時から20時まで、その後提唱や茶礼があり21時頃に散会になります。
僧堂よりは遥かに楽ですが、普通の在家にとって毎日2炷1時間の坐禅を7日間というのはなかなか大変だと思います。
私は通常の坐禅でも1時間前から随意坐で坐りますから2時間になります。

たかだかその程度坐ったからと言って何か悟るわけではありませんが、これだけ集中して坐ると禅定がかなり深くなるのは事実です。
禅定が深くなる、というのはなかなか言い表しがたい感覚ですが、強いて言えば彼我の境界線、自他の境界線、自分と世界の境界線が薄れるような感覚ではないかと思います。
薄れてどうなるのかというと、最近の言葉で言えばワンネス(The oneness)に触れることだと思っています。
昔はそれを仏と言ったり神と言ったりしていたと思いますが、要は自己などと言うものは本来なく、そう思っているものはこの宇宙を充たしている「そのもの」のごく一部であることを再確認する作業と言えるかもしれません。私の浅い経験では。

ただ坐って何の意味があるのか、と言う人もいると思いますが、逆にこの時代、インターネットを通じて世界の裏側で起こっていることも手に取るように知ることができてしまう現代に於いて、外側ではなく自己の内側を静かに見つめるという時間はかなり希少ではないかと思う次第です。

この期間、毎年老師が提唱するのは「臘八示衆」という書籍です。これは臨済宗中興の祖、白隠慧鶴禅師が在家のために書かれた本ですが、坐禅について基本からその哲学までなかなかうまくまとめられていると思う次第です。ネット上にもあまり出てないようですね。

臘八坐禅会最終日、提唱が終わると長徳寺ではおでんが振る舞われます。お酒なども供されます(笑)
私はお酒は飲みませんので、おでんは遠慮なく結構食べます(笑)
今年は特においしかった。まあ、これが楽しみで毎年頑張っているというのはあります(笑)

年内の坐禅会はこの臘八坐禅会を以て終わりになります。

臨済宗建長寺派大智山長徳禅寺
〒333-0866 埼玉県川口市芝6303
048-266-1465
坐禅会
毎月第1.2日曜日 6時~8時頃まで
提唱・茶礼あり
費用:なし
*ただし1月は第1週は休み、8月は第2週が休み。
*12月は1日~7日まで19時~21時頃まで、朝の坐禅会はなし。
*駐車場あり。
*坐禅会に興味があっても坐禅のやり方が分からない方はお気兼ねなくご連絡ください。


令和四年臘月八日
不動庵 碧洲齋

坐禅が行われる禅堂、ここまでの環境は滅多にありません。

臘八坐禅会最終日に振る舞われるおでん、雲水さんたちが作ってくれます。大変おいしいです。

 

新たなる坐禅会

私が師事している禅の師匠が体調不良のため、止むなく坐禅会を閉会することになりました。
無念残念としか言いようがありません。
コロナ禍でほぼ開催できなくなった後の閉会ですからショックです。
まあ、これも修行の一つなのかどうか。
現在私は月2回ですが、その寺と同じ程度に長く通っている坐禅会がありますが、そこに通っている方の1人から以前よりお誘いを受けていた別の坐禅会に行こうと思い立ちました。
両方の坐禅会は参加するようになってからかれこれ15年になります。
ある意味これもひとつの節目なのでしょうか。

参加しようと思っている寺の名前は高歩院、中野区にあります。東日本では大変珍しい臨済宗天龍寺派に属しています。東日本以北ではここと北海道にもう一つあるだけだそうです。
寺の由縁事態は古くはありませんが、その寺の敷地はかの山岡鉄舟の邸宅があったところだったそうです。故に坐禅会の名前は「鉄舟会」、武道をされている方も少なからずいらっしゃるそうです。ということで私にもまずまず合っている座禅会なのかなと思った次第です。
ちなみに今通っている寺も山岡鉄舟が若かりし頃、修行のためによく訪れていた寺で、鉄舟が寄進した石灯籠が今もあります。

この鉄舟会はなかなか本格的で僧堂の修行期間、夏であれば「雨安居」冬であれば「雪安居」の期間には毎月接心があり、金曜日の夜から日曜日まで宿泊して修行があるようです。お寺には老師が住職していて、独参もしています。
通常では土曜日の昼間と金曜日の夜。私は土曜日は午前も午後も稽古なので、金曜日の夜の坐禅会に参加することにしました。問題は会社の業後、会社から中野区まで行けるかどうかです。初参加の前に一度試しに原付で行ってみました。バイクで都心まで行ったのは初めてです。さすがに交通量は多く、ヒヤヒヤものでしたが時間的には十分間に合うことが分かり、参加を決めました。

新宿駅からそう遠くないとは言え結構奥まったところにあり、電車の音も聞こえないくらいに閑静な住宅街です。先週金曜日に初参加しましたがその閑かさに驚かされました。また、金曜日の参加者は少なく、落ち着いて坐れました。坐禅の後には般若心経ではなく「中峰和尚座右の銘」というものを読経します。中峰和尚は中国の元代の禅僧だそうです。初めて見た経典なので今必死に覚えてます(笑)

この新たな坐禅会にてどこまで錬磨できるのか分かりませんが、ひとつの節目として革めて気を引き締めて参りたいと思います。

令和四年神無月十八日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

鉄舟会道場外観

武神館 不動庵道場
【日時】2022年1月8日土曜日、14:00-16:00
【場所】谷塚上町会館:草加市谷塚上町231-1
【アクセス】東武スカイツリー線 竹ノ塚駅西口
東武バス 竹04/竹05にて約10分、又は竹06にて約15分。
バス停「谷塚上町」降りてすぐ。
駐車場あり。
入門希望者・興味ある方はご連絡ください。

唯独り坐る

禅仏教に初めて触れたのは2002年の5月、群馬県の山奥にある黄檗宗のお寺でした。以後父が他界した2007年2月頃までは概ね毎月訪れて指南を受けつつ坐りました。父の他界を機に本格的に師を求め、以後現在の寺でお世話になってからかれこれもう15年になります。(もう1カ所横浜の寺も同じくらい)どちらも老師が住職されています。

座禅会は月2回、第1、2日曜日の朝6時からですが、12.3年ぐらい前から1時間前に来て坐るようになりました。もちろん誰よりも一番早い入堂です。1月2月が一番寒く、マイナス2度ぐらいになったこともありました。(もちろん冷暖房はありません)
坐禅は長く坐ればよいというものではありませんが、せっかちな私はやはり長く坐ります(笑)

最初の1時間は(実際には開始20分ぐらい前から三々五々で参加者がやってきますが)自分との戦いです。誰か見ているわけでもないので居眠りすることも可能ですが(笑)、やはり誰もいないときにこそ真価が発揮されると思い精進しています。
誰もいない堂内で独り坐っていると、はじめは色々な想いが巡ります。昔はそれをどうにかして押さえつけたり消し去ったり、無視したりしていました。しかしそういう雑念は実は私たちが思っているような意味での雑念ではないことが多いものです。
雑念というのは坐っている今現在の自我にとってのみ都合の悪いもの、違う時間や場所、あるいは他の人にとっては雑念でも何でもありません。雑念は「自我」があるから浮かぶもの、厳密には「自我の置き所」が悪いから浮かんできてしまうものです。

初めて禅の指南を受けた群馬県の寺である日、住職が鐘楼で鐘を突いてから「鐘の内側の中心に立ってみなさい」と言われたのでその通りにしてみました。驚きました、そこは完全な静寂が支配していました。音が全く聞こえません。中心から少しずれると頭が割れそうな轟音になります。
住職は言いました。「世の雑音や雑念は自分の置き所が悪いから浮かんできたり聞こえてきたりする。間違ったところであればあるほど音や想いが大きくなる。しかし本来あるべき正しいところにいれば周囲に雑音や雑念はあってもそのまま静寂にいられる。自分にとっての静寂な場所を探す、これが禅の修行の要諦です」
このときの教えは今でも私を支えています。
自分にとって娑婆の喧噪と雑念妄想がありながらそのまま静寂のある場所はどこか、いつも考えます。

令和四年神無月十日
不動庵 碧洲齋

静寂を聴いた鐘楼の鐘

 

念珠

先月豪州に旅行した折、市場で中国人が売っていた黒い石のネックレスが気に入って買いました。50珠でした。15豪ドルでしたから結構安かったと思います。
帰国後、ふとこれを念珠にできないものかと思い立ち、調べてみると108珠の僧侶が使う正式な念珠以外にもその半分の54珠、更に半分の27珠、いわゆる略式数珠などがあるとのことでした。するとあと4珠足せば54珠の念珠ができると思い、浅草で懇意にしている念珠堂さんに訪ねると作り直せるとのことだったので早速本日持参して依頼しました。
私は今まで既製品の念珠以外持ったことがなかったのですが、今度はオンリーワンの念珠になります。数時間でできるとのことだったので数珠を預けて秋葉原などに行って用事を済ませ、戻ってくると出来上がっていました。同じ石の親玉込みで54珠、禅宗式のものに仕上がっていました。ま、予算が少々想定よりも高かったのですが、出来映えを考えると満足です。
今までは柘植の木の珠で造られた略式はお守り代わりにいつも持ち歩いていたのですが、今後、墓参の折にはこの新しいマイ念珠を使いたいと思います。

令和四年長月四日
不動庵 碧洲齋

豪州で買った黒い石のネックレス、石の名前は忘れた

作り直して念珠になった

武神館 不動庵道場
【日時】2022年1月8日土曜日、14:00-16:00
【場所】谷塚上町会館:草加市谷塚上町231-1
【アクセス】東武スカイツリー線 竹ノ塚駅西口
東武バス 竹04/竹05にて約10分、又は竹06にて約15分。
バス停「谷塚上町」降りてすぐ。
駐車場あり。
入門希望者・興味ある方はご連絡ください。

専一ということ

専一:他を顧みず、ある物事だけに力を注ぐこと。

政府は大々的にアナウンスしていないようだが、去る4月6日に入国、帰国対象者への規制を大きく緩和した。私はテレビをほとんど見ないのでニュースになったかどうかは知らないが、ネットで検索しないと出てこないレベルではある、しかも政府当局の書き方は紛らわしい。幾つかのソースでは欧米と同じ基準にしたものの、できればそうしたくなかったのでひっそりと緩和したとのこと。なるほど日本だ(苦笑)

ワクチン接種3回と入国・帰国72時間前に検査を受けて陰性証明書を発行してもらうことが条件で、多くの国から日本に入国・帰国した場合の隔離が免除になるとのこと。完全ではないがこれで海外に行ける条件にほぼばった。

かりに今年の夏に海外に行くとなると、海外に行くのは約3年ぶりだ。こんなに海外に行かなかったのは久しぶりで10数年なかった。たまたま金曜日の会社終業近くにこの発表を知り、一瞬だけ小躍りしたくなった。久し振りに心が晴れ渡った気分というのか。ほんの一瞬である。その後にどっと押し寄せてきたのは「後悔」(笑)

このどうにもならない息苦しい3年間、その場でその時にできる自分の責務を専一に行っていたか、粛々とこなしていたか、いい加減にはしていなかったか、投げやりになっていなかったか、などなど自分の行動を点検してみると悔やむところ多々是あり。

いや、仕事は真面目に手を抜かず、誠実に行ってきたことは間違いない。手を抜いたりはしてない。ただ「専一」だったかどうかとなると怯まざるを得ないことあり。「ああ、コロナでなければ」「コロナがなかったら今頃は・・・」「このコロナ禍はいつまで続くのだろう」そのような雑念妄想が常によぎっていたことを大いに恥じる。禅を修行する者としては恥じねばならない。それはテレビを見ながら食事をするのと同じ、職場で居眠りしているのと同じ、彼女とデート中に他の女のことを考えているのと同じだ。

その行為と自分が一つになる、鏡に映った自分、あるいは鏡そのものになる、そのような境地あるを知りつつ、雑念妄想に身を任すままとは本当に情けなくもある。是は単純に自分の胆力が足りなかったから他ならぬ。正直言うと想像以上に自分の胆力がないことに愕然とした。

今年はコロナによって寸断されていた国際間の往来がかなり緩和されると思うが、私はその前に己の未熟さを痛感させられた。まだまだ修行が足りぬという事実だけがあらわになった今日この頃である。

令和四年卯月九日
不動庵 碧洲齋

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稽古時の坐禅


武神館 不動庵道場
【日時】2022年1月8日土曜日、14:00-16:00
【場所】谷塚上町会館:草加市谷塚上町231-1
【アクセス】東武スカイツリー線 竹ノ塚駅西口
東武バス 竹04/竹05にて約10分、又は竹06にて約15分。
バス停「谷塚上町」降りてすぐ。
駐車場あり。
入門希望者・興味ある方はご連絡ください。

至道無難ということ

これは三祖大師信心銘という仏教のテキストに出てくる一番最初の言葉です。
至道無難 唯嫌揀擇(しどうぶなん ゆいけんけんじゃく)
但莫憎愛 洞然明白(ただぞうあいなくば、とうねんとしてめいはくなり)

と続きますが、意味は「道に至るに難しいことはなく、ただえり好みを嫌う。憎愛なければこの世は明白この上ない。」ということです。
道というのは仏教の教え、或いは悟りへの道という意味です。それが実は簡単だというのですから恐れ入ります。

道そのものは明白で険しくはないが、それを険しくしたり難しくしたり、あるいは暗くしたり狭くするのは全て自らの心である、というのが本日の老師のお言葉でした。自らの心が相対的視点に囚われているから、本来広く平らな道が険しく、暗く、狭い道に見えてしまうのだという事です。

何か困難に遭ってしまったとき「ああ、他の人じゃなくてなんでオレだけ」というのがいわゆる「相対的視点」、その困難に遭遇していない他の人を羨む声です。あるいは「この困難に遭遇しなかったかも知れない自分」を羨む妄想です。「この困難に遭遇している自分」以外、この世には何ものも存在しません。それをすっと受け入れられるかどうかでしょうか。困難に当たって「今まで楽だったのに」「ああ、これからどれだけ大変になることやら」というのも今現在と過去、或いは将来とを比較した相対的視点です。自分は今、この場にしかいないという現実をどれだけすっと受け入れられるかでしょうか。「自分を鍛える好機」と見做しても「自分が摩耗する悪運」と思ってもその事実は全く変わりません。それはそのままその通り、想いなく受け入れる。それに良し悪し、好嫌の色を付けない、そうすれば大道は明るく平たく真っ直ぐに見えるのだと・・・思います。なかなかに難しいですが。

別の老師は物事が難しく見えるのは何か推し量る際に「自分自身を勘定に入れるから」だと言っていました。損得勘定を考慮しないというのは勇気が要りますが、逆に言えばこれが人を苦しめる根源だとも言えます。基督教にも無償の愛とありますから多分この手の行為は宗教に関係無く至高の行為なのだと想像します。

道の捉え方イコール心の持ち方でしょうか、まだまだ禅の修行が足りません。

令和四年卯月三日
不動庵 碧洲齋

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武神館 不動庵道場
【日時】2022年1月8日土曜日、14:00-16:00
【場所】谷塚上町会館:草加市谷塚上町231-1
【アクセス】東武スカイツリー線 竹ノ塚駅西口
東武バス 竹04/竹05にて約10分、又は竹06にて約15分。
バス停「谷塚上町」降りてすぐ。
駐車場あり。
入門希望者・興味ある方はご連絡ください。