不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

唯独り坐る

禅仏教に初めて触れたのは2002年の5月、群馬県の山奥にある黄檗宗のお寺でした。以後父が他界した2007年2月頃までは概ね毎月訪れて指南を受けつつ坐りました。父の他界を機に本格的に師を求め、以後現在の寺でお世話になってからかれこれもう15年になります。(もう1カ所横浜の寺も同じくらい)どちらも老師が住職されています。

座禅会は月2回、第1、2日曜日の朝6時からですが、12.3年ぐらい前から1時間前に来て坐るようになりました。もちろん誰よりも一番早い入堂です。1月2月が一番寒く、マイナス2度ぐらいになったこともありました。(もちろん冷暖房はありません)
坐禅は長く坐ればよいというものではありませんが、せっかちな私はやはり長く坐ります(笑)

最初の1時間は(実際には開始20分ぐらい前から三々五々で参加者がやってきますが)自分との戦いです。誰か見ているわけでもないので居眠りすることも可能ですが(笑)、やはり誰もいないときにこそ真価が発揮されると思い精進しています。
誰もいない堂内で独り坐っていると、はじめは色々な想いが巡ります。昔はそれをどうにかして押さえつけたり消し去ったり、無視したりしていました。しかしそういう雑念は実は私たちが思っているような意味での雑念ではないことが多いものです。
雑念というのは坐っている今現在の自我にとってのみ都合の悪いもの、違う時間や場所、あるいは他の人にとっては雑念でも何でもありません。雑念は「自我」があるから浮かぶもの、厳密には「自我の置き所」が悪いから浮かんできてしまうものです。

初めて禅の指南を受けた群馬県の寺である日、住職が鐘楼で鐘を突いてから「鐘の内側の中心に立ってみなさい」と言われたのでその通りにしてみました。驚きました、そこは完全な静寂が支配していました。音が全く聞こえません。中心から少しずれると頭が割れそうな轟音になります。
住職は言いました。「世の雑音や雑念は自分の置き所が悪いから浮かんできたり聞こえてきたりする。間違ったところであればあるほど音や想いが大きくなる。しかし本来あるべき正しいところにいれば周囲に雑音や雑念はあってもそのまま静寂にいられる。自分にとっての静寂な場所を探す、これが禅の修行の要諦です」
このときの教えは今でも私を支えています。
自分にとって娑婆の喧噪と雑念妄想がありながらそのまま静寂のある場所はどこか、いつも考えます。

令和四年神無月十日
不動庵 碧洲齋

静寂を聴いた鐘楼の鐘