不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

至道無難ということ

これは三祖大師信心銘という仏教のテキストに出てくる一番最初の言葉です。
至道無難 唯嫌揀擇(しどうぶなん ゆいけんけんじゃく)
但莫憎愛 洞然明白(ただぞうあいなくば、とうねんとしてめいはくなり)

と続きますが、意味は「道に至るに難しいことはなく、ただえり好みを嫌う。憎愛なければこの世は明白この上ない。」ということです。
道というのは仏教の教え、或いは悟りへの道という意味です。それが実は簡単だというのですから恐れ入ります。

道そのものは明白で険しくはないが、それを険しくしたり難しくしたり、あるいは暗くしたり狭くするのは全て自らの心である、というのが本日の老師のお言葉でした。自らの心が相対的視点に囚われているから、本来広く平らな道が険しく、暗く、狭い道に見えてしまうのだという事です。

何か困難に遭ってしまったとき「ああ、他の人じゃなくてなんでオレだけ」というのがいわゆる「相対的視点」、その困難に遭遇していない他の人を羨む声です。あるいは「この困難に遭遇しなかったかも知れない自分」を羨む妄想です。「この困難に遭遇している自分」以外、この世には何ものも存在しません。それをすっと受け入れられるかどうかでしょうか。困難に当たって「今まで楽だったのに」「ああ、これからどれだけ大変になることやら」というのも今現在と過去、或いは将来とを比較した相対的視点です。自分は今、この場にしかいないという現実をどれだけすっと受け入れられるかでしょうか。「自分を鍛える好機」と見做しても「自分が摩耗する悪運」と思ってもその事実は全く変わりません。それはそのままその通り、想いなく受け入れる。それに良し悪し、好嫌の色を付けない、そうすれば大道は明るく平たく真っ直ぐに見えるのだと・・・思います。なかなかに難しいですが。

別の老師は物事が難しく見えるのは何か推し量る際に「自分自身を勘定に入れるから」だと言っていました。損得勘定を考慮しないというのは勇気が要りますが、逆に言えばこれが人を苦しめる根源だとも言えます。基督教にも無償の愛とありますから多分この手の行為は宗教に関係無く至高の行為なのだと想像します。

道の捉え方イコール心の持ち方でしょうか、まだまだ禅の修行が足りません。

令和四年卯月三日
不動庵 碧洲齋

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武神館 不動庵道場
【日時】2022年1月8日土曜日、14:00-16:00
【場所】谷塚上町会館:草加市谷塚上町231-1
【アクセス】東武スカイツリー線 竹ノ塚駅西口
東武バス 竹04/竹05にて約10分、又は竹06にて約15分。
バス停「谷塚上町」降りてすぐ。
駐車場あり。
入門希望者・興味ある方はご連絡ください。

主人公

土曜日に観賞した映画「エッシャー通りの赤いポスト」についてです。
前のブログに書いたように、この映画は映画の中で映画を作っていくというプロセスを映画化したものです。多くの応募者から最終的には2名の主役が決まりますが、主役になれなかった人もエキストラに参加するという話で、カメラは主人公たち以外にもかなり時間を割いています。そこが園監督の面白いところなのでしょうか。

エキストラは文字通り作中の主役に華を添える名もなき群衆参加者ですが、その1人ひとりにストーリーがあると言うことにスポットライトを当てていて、それが大変面白かった。劇中のセリフに「お前は人生のエキストラのままでいいのか!」というのがありました。一般的にもよく、人生においては自ら観客となるなかれ、主人公となれ、と言われますがまさにそれです。

禅宗で読まれている書籍の中に「無門関」という本があります。公案が記載されています。所謂禅問答です。その中に「巌喚主人」という則があります。本文の和訳はこんな感じです。

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瑞巌師彦和尚は、毎日自ら「主人公」と呼びかけ、また自ら「はい」と答えていた。そして「はっきり覚めているか」と問い、「はい、覚めていますよ」と答えるのであった。「いつ、どんな時でも、他人に瞞されるな」と言い、「はい大丈夫」と答えた。
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一説には現在ドラマや映画で使われている「主人公」という単語はこれが原典と言われてます。この瑞巌師彦和尚は唐時代の僧侶です。
この本文だけ読んでも何のことかサッパリですが、以下ちょっと禅をかじった程度の一在家たる私の理解です。

身長、体重、年収、年齢、学歴、職歴、家族、容姿、人気などなど、どれも他人と全く比較しない、真の自分でいられるかどうか、ということ。日頃私たちは常に何か誰かと比較した、相対的な自分しか認識できません。「誰々よりも優れた自分」「誰々よりもカッコイイ自分」「誰々よりも給料がいい自分」などなど。「誰かと相対的に位置している自分」つまり比較対象なしには存在し得ない自分しか認識できません。客観的な存在です。

この「主人公」の意味は一切の相対的視点、客観的視点を排除した、本来からいる、真の自分を見つめる、と言う意味(だと思います)。比較対象の価値観に左右されない、本来の自分。
相対的な自分、客観的な自分というのは言わば自分がメインだと思っているエキストラのようなもの。あるいは主役あってのエキストラという関係。実際多くの人は無意識にそのように生きて日々を送っているようにも思います。
そういう意味ではこの映画でテーマにしている「人生のエキストラでいいのか?」という問いかけはなかなか意味深のように思います。

隣の芝は青いというのは世の常ですが、一度、他と比較をしない、徹底して自分という「主人公」になり尽してみませんか?

 

令和参年臘月二十八日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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臘八坐禅会

伝説によるとネパール南部にあった小国、シャカ国の王子だったゴータマ・シッダールタは人の持つ苦しみを解決しようと29歳の時に王子の座と妻子を棄てて苦行を続け、35歳の時にガヤー地区にあるナイランジャナー川のほとりにあるピッパラ樹の下に7日間坐禅をし、8日目の夜明け、明けの明星を見て偉大なる悟りを開いてブッダとなった、とあります。


現代日本禅宗僧堂ではこの追体験として、禅宗の修行の中では最も苦しいとされる「臘八接心」というものがあります。12月1日から8日朝まで、睡眠時間はせいぜい2時間(しかも「坐ったままで眠る)、それ以外は坐禅と独参が続きます。私の師匠は鎌倉建長寺で10年ほど修行しましたが、臘八接心ではほぼ眠らなかったと言ってました。7日間睡眠しないというのはちょっと想像できません。師匠曰く疲労困憊し尽すと、もはや雑念すら湧いてこないのだとか。その先に悟りがあるのだそうです。とにかくこの臘八大接心を通過して初めて一人前の修行僧として認められるのだそうです。(それ以前は名前すら呼ばれない)


在家の坐禅会でもこの期間、特別な坐禅会をする場合があります。私が通っている寺では臘八座禅会と称し、通常は毎月第1、第2日曜日の早暁の坐禅会が、12月だけは1日から7日まで19時から20時まで行われます。慣れない人が参加すると結構こたえるようです。ちなみに7日目の坐禅会が終わった後はお寺でちょっとした料理が振る舞われますので、まあそれが楽しみでやっているとも言えます(笑)


いつからだったか忘れたのですが、この臘八坐禅会の期間中、時々坐る回数(時間)を決めて挑戦することがあります。それは大体7日間で48炷(1炷は30分)つまり24時間坐るというものです。坐禅会では1時間だけですが、その1時間前から禅堂が開くので私は通常2時間坐ります。その他毎朝通常は1炷坐るところ、この期間は2炷坐るので1時間、更に坐禅会から帰宅後に1炷、それを7日間続けると24時間30分になりますが、最終日は料理が振る舞われるので最終日の帰宅後の坐禅を免除すると丁度24時間坐れます。今年は24時間チャレンジやってみようと思い立ちました。


禅宗の修行僧ではないのでさすがに毎日3時間以上も坐るといい感じで効いてきます(笑) 毎日やったら慣れるものなのかな? 禅友の1人で既に年金生活者ですが、1日特に用事がなければ8炷坐るという強者がいますが、私にはちょっとムリ(笑) いえ、実は禅を始めた頃、1日8炷は何度かやりました。でも今やれと言われたら結構辛いかも。そう考えると修行僧の皆様は本当に凄いですね。


本日は今朝既に1時間坐りました。会社が終わったら寺に直行して2時間、帰宅後に1炷30分の坐禅です。これが1週間続きますが、ある意味これが私にとって自分と向き合い格闘する、一番の山場と言えます。

 

令和参年臘月朔日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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私がいつも坐るのは一番端の単です。

 

将来の夢

50を過ぎてこんな事を言うのも恥ずかしいのですが、将来やってみたいと思っていることは幾つかあります。それらは別段大それた事でも大変お金の掛かる大事業でもありません。

その中で是非やってみたいのは「四国八十八ヵ所巡礼」です。
日本で一番有名な遍路ですが、昨今は外国人にも大変人気があるようです。
距離は徒歩で1200キロ、日程にして一度に歩く通し打ちをする場合、早くても45日、じっくり歩けば55日以上というもの故、普通にサラリーマンをしている人には無理なプランと言えます。
また、毎日20キロぐらいは歩くのである程度健脚でないと持ちません。

昨今は公共交通機関、バイク、車で回る方も多いようですし、何度かに区切って歩く人もいますので、色々なアプローチの仕方があると思いますが、私は徒歩で通しでやってみたいと考えています。
何かのデータには徒歩で通し遍路する人は毎年おおむね1000人程度、半分前後は途中で脱落するとか。毎日通し遍路として1番札所を出る人が大体3人程度いるって事か(笑) そうだと思います。

私は以前、区切り打ち秩父34ヶ寺遍路をしましたが距離はたかだか100キロです。普通に歩いても5日かそこらで歩けます。(それはそれで大変でしたが)この遍路という巡礼はなかなかにして得難い経験だったように思います。それで今度は四国八十八ヵ所巡礼を目指してますが、やはり徒歩で通しだと旅館に泊まったりと結構お金が掛かります。徒歩でも上級者は野宿するという強者もいるようです。そうすると費用は10万円かそこいらで済むと書いてありました。私も野宿遍路もやってみたいと思ってますが、まずは場数を踏まねば。

何せ埼玉から四国は遠い。というか四国行ったことないし。主要な地方で行ったことがないのは四国だけです。区切り打ちなどという贅沢あるいは時間の無駄はしたくないし、やはり通し打ちの方が気分が出る。と言っても最後に高野山まで回ったらほぼ2ヶ月。まあ今の仕事を辞めてからですかね。今の会社はあまり長くは存続するようには見えないので(笑)、息子の学業が終わる、あるいは学費捻出に目処が付いたら辞めようと思ってます。遍路の費用は退職金の一部から(笑)、なのでお金の心配よりも時期と体力でしょうかね。歩くのは好きです。禅定に入りやすい。

と、そんなことを妄想しつつ日々、仕事の合間に体験者のブログやサイトをくまなく読んで情報収集に努めています。

 

令和参年霜月二十八日

武神館 不動庵道場

不動庵 碧洲齋

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秩父三十四ヶ寺遍路をしたときの写真

 

《お知らせ》

武神館 不動庵道場 開庵
【日時】2022年1月8日土曜日、13:00-15:00
【場所】谷塚上町会館:草加市谷塚上町231-1
【アクセス】東武スカイツリー線 竹ノ塚駅西口
東武バス 竹04/竹05にて約10分、又は竹06にて約15分。
バス停「谷塚上町」降りてすぐ。
駐車場あり。
入門希望者・興味ある方はご連絡ください。

一坐の功をなす人も

普通、臨済宗の寺で坐禅が行われるとき、坐った後にふたつほど読経します。
一つは般若心経、これは禅宗全てで読まれます。そしてもう一つが「白隠禅師和讃」というお経。これは臨済宗中興の祖、白隠禅師が在家のために書いた和讃で、江戸時代の日本語読みで書かれているため、般若心経などのお経よりもずっと意味が分かりやすく作られています。この「白隠禅師和讃」には坐禅の功徳が書かれています。その中の一句が坐禅の効用について書かれています。

「一坐の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ」
たった一度の坐禅でも、今まで知らずに積み重ねてきた無数の罪でさえも消えるだろう。

実際そんなに甘くありません(笑) 私の解釈では「一坐」というのは「一日一坐」ではないかと思います(笑)
つまり毎日ちょっとでも坐ったなら、今まで知らずに積み重ねてきた無数の罪でさえも消えるだろう、という意味だと思います。

つまりほんの少しでいいから毎日の積み重ねが重要だと、私は解釈します。坐禅に限った話しではありませんが、どんな小さいことでも毎日継続していくことが重要ではないでしょうか。たくさんの小さな事の積み重ねが自分の生き方をより良くし、延いては社会に貢献できると考えます。
そういう意味で「継続は力なり」とはまさに名言です。

去年ぐらいまでは朝の坐禅は気が向いたときにだけしてました(帰宅後の坐禅も気が向いたら)。今年に入ってから何故か毎朝一炷を行うようになりました。一大決心とかしたわけではありません。実は私はそういう「決心ごと」があまり好きではありません。何となくやっていることが習慣化した方が長続きしそうな気がします(笑) その朝の坐禅は今年の割と早い時期から始まって今のところずっと続いています。
坐禅会では4炷2時間ぐらい坐るのは普通ですが、毎日継続して一炷坐るのも重要ではないかと思った次第です。今後も継続していきたいと思います。

令和参年霜月二十二日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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《お知らせ》

武神館 不動庵道場 開庵
【日時】2022年1月8日土曜日、13:00-15:00
【場所】谷塚上町会館:草加市谷塚上町231-1
【アクセス】東武スカイツリー線 竹ノ塚駅西口
東武バス 竹04/竹05にて約10分、又は竹06にて約15分。
バス停「谷塚上町」降りてすぐ。
駐車場あり。
入門希望者・興味ある方はご連絡ください。

挨拶

挨拶、どなたでも毎日何度もしている行為ですが、実はこの「挨拶」、元々は仏教用語です。挨は「迫る」、拶は「切りこむ」こと。師匠と弟子との問答のやりとりのこと。私が帰依している禅宗のひとつ、臨済宗では特に師弟間にて行われる参禅の様子を指します。師が修行僧に公案を与え、次の時に修行僧は自分で得た答えを老師の前で答えます。一番有名なのは「両手で叩くと音がする、片手で叩いた音はどんな音か」でしょうか。そのような真剣勝負のやり取りを「挨拶」と呼んでいました。

日本語ではある別の表現もそれに近い意味を指していると思います。それは「一期一会」。その一瞬一瞬、その次がない出会い、そう思えばこその「一期一会」ですから、その時に交わされる言葉はまさに挨拶です。挨拶がいい加減な人は何の根拠もなしに明日も生きているだろうと思い込んでいるが故のいい加減さではないでしょうか。明日どころか1分先まで生きていられる保障はどこにもありません。

挨拶に限った話しではありませんが、一瞬一瞬、目の前のことに全集中できる人というのはたぶん、次の瞬間に死んでも悔いを残さない人ではないでしょうか。いい加減に生きた人ほど死ぬ間際が見苦しかったり、悔やみきれないこと多々あると思います。真剣に生きるという意味は、裏を返せば最後に笑って死ねる人生、死に際に気持ちよく死ねるための行為だと思います。人生の一番最後に気分悪かったらやはりいい気はしませんね。

何でこんな事を書いたのかというと、私は日頃から会社でも家でも挨拶は割と率先して行う方だからです。相手が明らかに敵意や悪意を持っていて無視することが想定できても必ず挨拶をします(笑) ただ昨今、明言は避けますが、私の挨拶を完全無視する人がいるんです。無視して気分悪くなるのは本人なんですけどね。しかも本人にも大きな子供がいて、教育に関わる仕事をしているにも拘わらずそれではいかがなものかと思っています。そういう状況が続くと多くは余計に依怙地になってしまうものですが、年齢が高くなるとそれはもう変更や改善が全くできない状態になります。挨拶に限った話しではありませんが、生きること全般においてそのように智慧に欠ける生き方だけはしたくないものだとよく思います。


令和参年水無月二十二日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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不動明王

私の生まれ年は酉年です。なので本尊は不動明王になります。

また、初めて禅の手ほどきを受けた寺の名前が「不動寺」、秘仏不動明王が安置されています。道場の名前も「不動庵」にしています。

武芸をしている人、修行をしている人にとっても不動明王は守護仏ですから、昔から何となく信仰してましたし、特に禅をするようになった約20年前からは強い信仰を持つようになりました。

仏壇には父が他界した年、2007年に買った不動明王が安置されています。本尊が大日如来ですから好一対ですね。大日如来の別の姿が不動明王と言われています。

基本、占いとかはあまり信じない方ですが、験担ぎにしていることがあります。私は密かに「不動占い」とか言ってますが(笑) 何のことはない、毎朝の読経をした後、不動明王像をじっと見て、怒りや悲しみの表情をしていたら今日一日何か良くないこと、悪いこと、面倒なこと、難題があるという徴で、微笑んでいたらいいことがあるという具合。仏壇の奥なので結構薄暗くて目を凝らしても表情まではあまりはっきりとは見えません。

去年ぐらいまでは不動明王像は色々な表情を見せていた気がするのですが、去年末か今年からはほとんどが微笑んでいるように見えます。私的にも今後すべき事がハッキリしてきました。もしかしたらそれが像に投射されたのかなとも思いますが、その方向性が間違っていないのだと密かに思っています。

ただ不動明王のご尊顔を拝する前の読経は一心不乱に大きな声で行うようにしています。邪念や雑念、私念が入らないように集中するように心掛けています。それがあって初めて正しく不動明王を拝することができると思っています。

皆さんにも何か験担ぎはありますか?

 

令和参年皐月十日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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我が家の不動明王

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