不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

挨拶

挨拶、どなたでも毎日何度もしている行為ですが、実はこの「挨拶」、元々は仏教用語です。挨は「迫る」、拶は「切りこむ」こと。師匠と弟子との問答のやりとりのこと。私が帰依している禅宗のひとつ、臨済宗では特に師弟間にて行われる参禅の様子を指します。師が修行僧に公案を与え、次の時に修行僧は自分で得た答えを老師の前で答えます。一番有名なのは「両手で叩くと音がする、片手で叩いた音はどんな音か」でしょうか。そのような真剣勝負のやり取りを「挨拶」と呼んでいました。

日本語ではある別の表現もそれに近い意味を指していると思います。それは「一期一会」。その一瞬一瞬、その次がない出会い、そう思えばこその「一期一会」ですから、その時に交わされる言葉はまさに挨拶です。挨拶がいい加減な人は何の根拠もなしに明日も生きているだろうと思い込んでいるが故のいい加減さではないでしょうか。明日どころか1分先まで生きていられる保障はどこにもありません。

挨拶に限った話しではありませんが、一瞬一瞬、目の前のことに全集中できる人というのはたぶん、次の瞬間に死んでも悔いを残さない人ではないでしょうか。いい加減に生きた人ほど死ぬ間際が見苦しかったり、悔やみきれないこと多々あると思います。真剣に生きるという意味は、裏を返せば最後に笑って死ねる人生、死に際に気持ちよく死ねるための行為だと思います。人生の一番最後に気分悪かったらやはりいい気はしませんね。

何でこんな事を書いたのかというと、私は日頃から会社でも家でも挨拶は割と率先して行う方だからです。相手が明らかに敵意や悪意を持っていて無視することが想定できても必ず挨拶をします(笑) ただ昨今、明言は避けますが、私の挨拶を完全無視する人がいるんです。無視して気分悪くなるのは本人なんですけどね。しかも本人にも大きな子供がいて、教育に関わる仕事をしているにも拘わらずそれではいかがなものかと思っています。そういう状況が続くと多くは余計に依怙地になってしまうものですが、年齢が高くなるとそれはもう変更や改善が全くできない状態になります。挨拶に限った話しではありませんが、生きること全般においてそのように智慧に欠ける生き方だけはしたくないものだとよく思います。


令和参年水無月二十二日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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