不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

主人公

土曜日に観賞した映画「エッシャー通りの赤いポスト」についてです。
前のブログに書いたように、この映画は映画の中で映画を作っていくというプロセスを映画化したものです。多くの応募者から最終的には2名の主役が決まりますが、主役になれなかった人もエキストラに参加するという話で、カメラは主人公たち以外にもかなり時間を割いています。そこが園監督の面白いところなのでしょうか。

エキストラは文字通り作中の主役に華を添える名もなき群衆参加者ですが、その1人ひとりにストーリーがあると言うことにスポットライトを当てていて、それが大変面白かった。劇中のセリフに「お前は人生のエキストラのままでいいのか!」というのがありました。一般的にもよく、人生においては自ら観客となるなかれ、主人公となれ、と言われますがまさにそれです。

禅宗で読まれている書籍の中に「無門関」という本があります。公案が記載されています。所謂禅問答です。その中に「巌喚主人」という則があります。本文の和訳はこんな感じです。

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瑞巌師彦和尚は、毎日自ら「主人公」と呼びかけ、また自ら「はい」と答えていた。そして「はっきり覚めているか」と問い、「はい、覚めていますよ」と答えるのであった。「いつ、どんな時でも、他人に瞞されるな」と言い、「はい大丈夫」と答えた。
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一説には現在ドラマや映画で使われている「主人公」という単語はこれが原典と言われてます。この瑞巌師彦和尚は唐時代の僧侶です。
この本文だけ読んでも何のことかサッパリですが、以下ちょっと禅をかじった程度の一在家たる私の理解です。

身長、体重、年収、年齢、学歴、職歴、家族、容姿、人気などなど、どれも他人と全く比較しない、真の自分でいられるかどうか、ということ。日頃私たちは常に何か誰かと比較した、相対的な自分しか認識できません。「誰々よりも優れた自分」「誰々よりもカッコイイ自分」「誰々よりも給料がいい自分」などなど。「誰かと相対的に位置している自分」つまり比較対象なしには存在し得ない自分しか認識できません。客観的な存在です。

この「主人公」の意味は一切の相対的視点、客観的視点を排除した、本来からいる、真の自分を見つめる、と言う意味(だと思います)。比較対象の価値観に左右されない、本来の自分。
相対的な自分、客観的な自分というのは言わば自分がメインだと思っているエキストラのようなもの。あるいは主役あってのエキストラという関係。実際多くの人は無意識にそのように生きて日々を送っているようにも思います。
そういう意味ではこの映画でテーマにしている「人生のエキストラでいいのか?」という問いかけはなかなか意味深のように思います。

隣の芝は青いというのは世の常ですが、一度、他と比較をしない、徹底して自分という「主人公」になり尽してみませんか?

 

令和参年臘月二十八日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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