不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

神無月三日稽古所感

昨日は新しい稽古場で初の稽古を行いました。
あいにく弟子が一人休んでしまったのでマンツーマン。
最初はまず引き取ったマットを1階のフロアに敷きましたが、大きさとしては前と大方同じ、若干長い。
床はコンクリートなのでやはりマットは必需品かと。
しかし保管場所に苦慮しました。結局2階のほとんど使っていない給湯室(結構な大きさ)に置いて頂くことに相成りました。

場所的には前の稽古場よりもずっと駅から遠いには違いないのですが、50年来の付き合いになる峯ヶ岡八幡神社の境内にある峯町会会館はとても気に入っています。更に会長以下、役員の方々からも大変なご厚意を受けましたので、宮司以下、皆様のご期待に添えるよう、一層の精進して参りたいと思います。町会の催しものなどに出るとなれば演武の稽古もあるでしょうから、弟子たちも一層励みになると思います。

稽古には町内会の会長と副会長が見学をされ、大変興味深くご覧になって頂いたことが有り難い限りでした。
9月はほぼ稽古ができなかったのでまず受身、体練、五行の型を行ってから休憩、あとは複数の崩しの動きとそのバリエーションを行いました。
Kさんは入門1年目とはいえ最古参ですが、あまりレベルが高すぎることを要求してはいけないのかどうか悩みます。
やや罪悪がなきにしもあらずですが、この要さえ修得できたら大抵の技はもっと容易にできると思っているので。

今月も色々な国から海外同門が来る予定なので、賑やかになりそうです。

私はこの峯ヶ岡八幡様に呼ばれたる気がするのです。
されば身を慎みつつ武芸と陰徳を磨かねばならぬと思った次第。
峯ヶ岡八幡神の御稜威あらんことを。

令和五年神無月四日
不動庵 碧洲齋

武神館 不動庵道場
【日時】毎週火曜日:19:00-21:00, 土曜日:14:00-17:00
【場所】峯町会会館:埼玉県川口市峯999-1
【アクセス】東武スカイツリー線 草加駅西口
東武バス 川11にて約15分
バス停「貝塚」降りてすぐ。
駐車場あり。
入門希望者・興味ある方はご連絡ください。

不動庵道場 転庵

一昨年より開いていた武神館 不動庵道場が今まで稽古をしていた谷塚上町会館から隣の川口市峯町にある峯町会会館に移ることと相成りました。峯町会会長様以下、役員の方々や峯ヶ岡八幡神社の宮司様たちの温かいご理解あって実現しました。深く感謝いたします。
移転先の峯町会会館は更に設備がよいだけではなく、私が幼少の頃から縁のある峯ヶ岡八幡神社に隣接しているという立地(実際には会館は神社の敷地に建てられている)。八幡神と言えば武芸の神ですから、武芸精進には御利益があること甚だ大です。実際に私は海外の武友を連れてこの神社に来るのですが、この峯ヶ岡八幡神社では今までさまざまな国の武友たちが武運長久の祈祷を受けています。
峯ヶ岡の名の通り、会館前の道路は参道で、石灯籠が並ぶ参道を登っていった小高い丘に神社があります。神社には樹齢700年という大銀杏の木があり圧巻です。全体的に緑豊かな社杜がありますが、私はこのすぐ近くの幼稚園に通っていたため、この神社とも50年ぐらいに付き合いになります。私は幼稚園の散歩でここに来た折、大銀杏の木の陰から甲冑を着た武者姿の武神を見ました。今にして思えばこの生き方を示唆していたような気がします。そういう意味ではこの地で稽古するという奇縁も、八幡神に呼ばれたからのような気がします。

さて、不動庵道場は10月からは以下の予定で稽古を行います。
毎週火曜日:19時~21時
毎週土曜日:14時~17時
土曜日は坐禅も行う予定です。

まだまだ少数なので稽古はかなり自由に行っていますが、今後もっと仲間が増えてきたら嬉しく思います。

令和五年長月二十七日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

新たな稽古場となった峯町会会館

峯ヶ岡八幡神社参道

峯ヶ岡八幡神社

 

理想の動き

武芸者であれば誰でも他者の技量をよく観察して、得られるものは得て、反面材料にするものはそうしていると思います。
ある程度上手い下手で見てしまうことは致し方ないと思いますが、最近ふと思うこと。

「上手い下手」の基準を自分の技量を基準にしている人は、本人自身も大したものではないと思うことがあります。10年20年ぐらい前までは私もそんな感じでした。小者とまでは言いませんが、普通でしょうね。
では何を基準にするのか。それは自分が修得したいと思っている理想の技量を修得しているのかどうか、或いはそれに近い人かどうか、を基準に見るようにしています。
自分なりに長年修行をしてくると、自分にとっての理想の動きというものが明らかになってくるものだと思います。
とはいえそれはずいぶん基準が厳しいですが(笑)
その理想の動きというものは自分の師匠の動きそのものかも知れませんし、違うのかも知れません。

私の場合も幾つかの理想と考える動きをしているという条件をクリアしている人には惜しみなく賞賛して、教えを請います。
そしてそういう人は同門の中に何人かいます。あいにく海外の同門なので毎回会えるわけではありませんが。
ネット上の動画でも、そう思える人はかなり少ないですね。YouTubeなど100本ぐらい見て2.3本あったら大漁です。

ただ「北斗の拳」で使われる「究極奥義」などはフィクションにしても、究極奥義的な、理屈では絶対できるはずだと思う動きが私の中には常にあります。しかし、現実的にはその諸条件が奇跡的に任意の一瞬に集約されるような神のタイミングがない限りは不可能というものですが。私の想像では昔の武芸者ではそれができる人が確かにいたという確信のようなものがあります。そういう人は多分流儀の始祖や伝説的な武芸者だったと思うのですが・・・もうそれはファンタジーですかね。いや、意外にそういう武芸者は世に出ないものなのかも知れません。

死ぬまでにそれら理想の動きをマスターできたらいいなと思いつつ、日々地味に試行錯誤しつつ稽古をしています。

令和五年長月二十六日
不動庵 碧洲齋

 

覚悟を持って生きる

当流は大変国際的で、古流の中では抜きん出て外国人門下生が多いと思います。世界規模で言えば外国人門下生の方が圧倒的に多いと言えます。
私が所属する道場も然り。12,3人いる直門の半分は日本在住の外国人です。

本部道場で稽古をする際は、受付で名簿に名前と国籍を記入します。国籍欄がある辺りが何とも当流らしいですが。本部道場は各古参の師範たちが使っていますが、私の師匠も週に2回、ここで教えています。私も毎週日曜日には本部道場に行って指南を受けています。

最近、その参加者名簿を見て思うことがあります。
私はこの道場では最古参ですが、ナンバーツーについて。
彼はアメリカ人でとても美人の日本人の妻を持ち、1歳になる娘がいます。
彼の道場名簿への記入の仕方についてです。
外国人なので本来はカタカナのはずですが、苗字は10年以上も前に私が頼まれて作った漢字の名字を使っています。そしてもちろん、苗字・なまえの順で記入する(笑) しかもその漢字の名字は長年使っているために通名としてちゃんと公式に認められていますから、どれだけこの苗字を気に入ってくれているのか。作った側も身が引き締まる思いです。

そしてその次の国籍欄、昔は彼はアメリカや米国と記入していましたが、最近は「日本」。
永住許可はあると思いますが、国籍は変えていません。それでも彼は国籍欄に漢字で「日本」と書いています。

最初は武芸を志しているが故に、日本に対する単なる憧れのようなものではないかと思ったりもしましたが、さにあらず。
日本の武芸を志すことに端を発し、そのために日本社会で生きる覚悟を決め、今や日本人と家族になり日本社会の一員となっているということに対しての覚悟のように、最近は感じるようになりました。

彼自身は在日10数年になります。間違いなく日本は多くの意味で住みやすい国ではありますが、アメリカとは全く違う文化です。それでも日本文化や日本社会を心から愛して、母国とは全く違った文化を持つこの国で覚悟を持って生きているように思います。ある意味日本人以上に日本人らしいところがあり、時折感銘を受けることがあります。

そしてこうも思います。日本人はこれほどまでに日本の文化や伝統、或いは社会を理解しようと努力して愛しているのかどうか。日本に生まれて日本国籍を持っているというだけで、その上にあぐらを掻いてはいまいか。世界には心底日本を愛して止まない外国人が多くいて、私は当流での交流を通じて実際に見ています。毎年、或いは数年に一度、せっせと貯めたお金を使って来日して稽古をしてまた去って行く外国人同門が大勢います。そのような彼らの覚悟を、日本人門下生は正しく受け止めているのか。私が日々精進をするのは、そういう彼らの覚悟を真正に受け止められるに足る人になりたいという思いからです。

令和五年長月二十一日
不動庵 碧洲齋

 

武道と忍法

武道という言葉は実は明治時代になってから作られた造語です。それ以前は武芸とか武術とか、そんな感じで呼ばれていました。作られたきっかけは、明治時代になって西洋式軍制が採用され、いわゆる武士の兵法は不要になったため。そもそも戦国時代以後、大規模な戦が起きておらず、武士の兵法は戦国時代の戦術的な練兵操法から、江戸時代を通じて精神的な修養に昇華されていたため、実際の戦闘には不向きになってきた事実は否めません。西洋の近代的軍制の方が遥かに戦争には向いていると言えます。

しかしながら武芸は明治になってよいこともありました。武芸は幕末から武士以外でも学ぶことができましたがあくまでそれは外野というか、聴講生のような非正式門下生というものが多かったようです。実際にはそれは建前で、町人や農民の中でも大変優れた武芸者は多く輩出していましたが、江戸時代までは一応武芸は武士のものとされていました。それが明治時代になり、一般人にも道場の門戸が開放され、正式に学ぶことができるようになったことです。武士の哲学は恐れながらも親しまれ、かつ尊敬されていた故に、明治になってからも武芸を学びたいという人は多かったようです。もちろん新政府を打ち立てた元武士だった政治家たちも新国家に相応しい人材を育成するために武士道を積極的に教育の一環として採用していた点も大きいと思います。

そんな中で武芸をもっと高めたいという向きがあり、茶道や華道のように「道」を付けてみては、という向きになった。元々武道という単語はあったようですが、それは主に「武士道」を指していたようです。改まって「武道」を掲げたのは、維新によって職を失い、惨めに興行的な武術を披露して食いつないでいる武士がいたため、それとは一線を画して古来からの武芸を正統に継承する意味で「武道」を使ったのだと思います。実際にそれは現代に於いても大変敬意を持たれる対象ですから、一応改名して正解だったと思います。

 

一方で忍法という言葉があります。甲賀流忍法とか伊賀流忍法というやつですね。驚く勿れ、この「忍法」、できたのは昭和時代で作成者も分かっていて、かの有名な作家、吉川英治だそうです。戦前、昭和の初期の作品に使われたのが初出だと言われています。これは驚きですね。もちろん「忍者」というのも明治から昭和初期にかけて作られた造語です。それ以前は各藩や幕府でさまざまな言い方がされていて、忍術という言葉さえほとんど使われていなかった由。武士も現代では例えば宮本武蔵などは超有名ですが、彼が有名になったのは明治時代に劇や読み物などです。忍者も同じく、今我々がイメージしているような忍者もやはり明治時代のものです。真田十勇士なども成立自体が江戸後期で、やはり知名度が上がったのは明治時代。講談などによってです。

実際に江戸時代の忍びのミッションと戦国時代のミッションでは結構違いがあることは想像が付くと思いますが、それはもう今のイメージとはかなり違い、忍者ファンの皆様には申し訳ないぐらいで(笑) 例えば戦忍びなどは特殊な銃器で狙撃兵の任を請け負ったり、もちろん特殊部隊のようなミッションをこなしたりしていたようですが、戦国時代なのでそれはもう死亡率がかなり高かったようです。江戸時代になればなったで、経済や政治などを理解できる高い知性を求められたりしたようです。コッソリ忍び込んだり、独自の道具を使うよりは、汎用的な意味で幅広く情報を収集、科学的、論理的に分析ができる忍びが重宝されたようですが、最近ネットで見た歴史学者さんの話ではあの尾張藩ですら5.6人しか採用していなかったと言うほど。確かに平和な時代ではあまり必要ないですね。

吉川英治先生が忍びの術に「法」を付けた辺り、俄然文学的センスが光ります。「道」ではないんですね。とはいえこの「法」が付いたお陰で本来の忍術が何やら妖術じみたものになってしまったとも言われていますが。「法」は仏教用語の「法」ダルマでしょうか。武術とは一線を画したえげつない、盗賊とも取られかねない技術を駆使してミッションをこなすわけですから道ではなくて人として守るべき法という意味で吉川英治先生は法を採用したのではないかと思った次第です。私はこの新しい造語は結構好きです。

私が好きな忍びは松之草村小八兵衛さんです。これは実在して、徳川光圀公に仕えた忍びです。藩内で盗賊をしていたところ、捕まってどういう経緯かご公儀の忍びになりました。実際にお墓もあります。ドラマ「水戸黄門」でもご一行に忍者がいますが、実際にも優秀な忍びを使っていたのは興味深いですね。よかったら調べてみて下さい。

 

令和五年長月二十日

不動庵 碧洲齋

 

坂と階段

人が何かを修得する過程において、私は常々大きく二種類あると思っています。
すなわち坂道のようにシームレスに上達する坂道型と、階段のように少しづつ垂直上昇する階段型。
もしかすると階段型も細分化すると坂道になるのかも知れません。

坂道型の人は日々の努力に対して得られた、小さな成功や僅かな上達を発見して歓びを感じる人なのかもしれませんし、コツコツ地道に続けているのかも知れません。
私はよく周囲からは地道に真面目にコツコツ努力する坂道型と見られがちなのですが、私自身は結構怠惰な方で正直汗水流して努力することが好きではありません。なのでいつも穴狙いが多い(笑) 最小限の努力と最大限の効果を狙うためにいつも広く深い観察力と洞察力を持つように努めているつもりです。

とはいえ、階段型の辛いところは努力しているのに次の一段が見えず、ひたすら先の見えない平坦な部分を歩むこと。また、次の一段がどれ程高いのか分からないこと。坂道型の人がジリジリと上昇しているのを横目に平坦な道を歩くのは正直辛いと思うことしばしば。そもそも階段型とは言ってもいつ次の1段があるのか分からない上にその段差がショボかったりする可能性もありますから。
そういう意味では階段型はこの先きっといいことがあると信じる、良くも悪くも何か信仰心のようなものがないとダメなのかも(笑)

私について言えば、どちらかというと大きな階段を上る方です。いや、実際には気付かないうちに小さな階段も上っているのかも知れませんが、あるときドンと1段登ったり、グンと押し上げられたりすることが多い。とは言ってもせいぜい数年に一度とか、そんな程度です。武芸でも禅でも何度かありますが、それがあったときは小躍りしたくなるような嬉しさと、ある種の怖さのようなものを感じます、元々私は小心者なので大いなる力(ちょっと大げさですけど)を得るとまず畏怖の念を覚えます。それにも増していつ終わるとも分からない平坦な道を歩いている間の焦燥感や忍耐力を考えると毎回疲労困憊です、情けないことに。

上達の定義にも色々ありますが、武芸で言えばまず武技に優れていることと定義すると、上達するためにはもちろん努力は必要ですが、それは方法論というのか視点というのか、それで型に差があるのかも知れません。
「その時間をとにかく一生懸命汗をかく」だけでは上達しないというのが私の持論です。人は等しく24時間しかありませんから。これを書くととんでもなく長くなってしまいますから、かいつまんで言えば、原理原則法則性を多角的に観察してそれを理解した上でそれを効率的に実現化させる訓練方法を編み出すこと。それは新しく考えねばならないこともありますし、継承されている稽古法の中にあることもあります。それらに気付くことです。私の経験ですが、昔ながらの稽古法にひたすら汗を流すタイプにはあまり感銘を受けた人はいませんでしたね。よりベターな、新しい鍛錬方法を編み出せる人はそれなりに優れていると思います。

昨今ITの発達著しく、従来のやり方考え方だけではどんどん社会に取り残されていってしまうのと同じで、武芸などの芸事も伝統を重んじつつも創意工夫が肝要ではないかと思った次第です。

 

令和五年長月六日

不動庵 碧洲齋

 

葉月二十一日稽古所感

昨日の稽古は弟子1人のみ。
崩しについて徹底的に稽古をしました。
個人的には崩しの技法は技の手順に関わる技法や知識よりも重要と考えています。

自分は限りなく安定して流れるような均衡の中にあり、相手は立ち直ることすらできずひたすら崩れ続ける状態にある、こんな状況が作れたら最高です。

渾身の一撃で相手を撃破するというのはカッコよいものですが、現実的には難しい上に試合ではない場合、例えば身を守るときの行為であった場合は確実に正当防衛として認められません。多分過剰防衛になると思います。日本の正当防衛の要件はかなりタイトなのです。
また、一撃で、という動きはかなりアンバランスでリスクも大きい。虚実織り交ぜて戦うことが武術の妙であるとは言え、一挙手一投足で極めるという動きはかなり危ういものがあります。

体の可動部位をなるべくたくさん、なるべく精緻に、かつ有機的に連動して織り成す体術の動きは流麗で、注意していても見逃してしまうほどに自然な動きです。それを行っている人は盤石の均衡を保っており、川の流れのように澱みがありません。またこの動きは大変掴みどころがなく、第三者が見ていても分かりにくい。これは複数を相手にしたときには有利です。相手の流儀を即座に知り、自らの流儀を見せない、これは実戦においてはかなり有利に働きます。これは私が実際に経験して感じたことです(笑)

とはいえ崩しは相手の体の本能や自然反射や心理まで深く精緻に読む必要があり、技の手順を学ぶことに較べると、崩しの手法は大変分かりにくく学びにくい。故に奥深いと思うのですが、弟子にはちょっと難しかったか(笑)
しかしこの妙が面白く感じてくるものです。弟子たちがこの機妙を愉しめるようになってくれたら嬉しく思います。

令和五年葉月二十二日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

今チャレンジしている知恵の輪

武神館 不動庵道場
【日時】2022年1月8日土曜日、14:00-16:00
【場所】谷塚上町会館:草加市谷塚上町225-1
【アクセス】東武スカイツリー線 竹ノ塚駅西口
東武バス 竹04/竹05にて約10分、又は竹06にて約15分。
バス停「谷塚上町」降りてすぐ。
徒歩の場合、最寄駅は谷塚駅
駐車場あり。
入門希望者・興味ある方はご連絡ください。