武芸者であれば誰でも他者の技量をよく観察して、得られるものは得て、反面材料にするものはそうしていると思います。
ある程度上手い下手で見てしまうことは致し方ないと思いますが、最近ふと思うこと。
「上手い下手」の基準を自分の技量を基準にしている人は、本人自身も大したものではないと思うことがあります。10年20年ぐらい前までは私もそんな感じでした。小者とまでは言いませんが、普通でしょうね。
では何を基準にするのか。それは自分が修得したいと思っている理想の技量を修得しているのかどうか、或いはそれに近い人かどうか、を基準に見るようにしています。
自分なりに長年修行をしてくると、自分にとっての理想の動きというものが明らかになってくるものだと思います。
とはいえそれはずいぶん基準が厳しいですが(笑)
その理想の動きというものは自分の師匠の動きそのものかも知れませんし、違うのかも知れません。
私の場合も幾つかの理想と考える動きをしているという条件をクリアしている人には惜しみなく賞賛して、教えを請います。
そしてそういう人は同門の中に何人かいます。あいにく海外の同門なので毎回会えるわけではありませんが。
ネット上の動画でも、そう思える人はかなり少ないですね。YouTubeなど100本ぐらい見て2.3本あったら大漁です。
ただ「北斗の拳」で使われる「究極奥義」などはフィクションにしても、究極奥義的な、理屈では絶対できるはずだと思う動きが私の中には常にあります。しかし、現実的にはその諸条件が奇跡的に任意の一瞬に集約されるような神のタイミングがない限りは不可能というものですが。私の想像では昔の武芸者ではそれができる人が確かにいたという確信のようなものがあります。そういう人は多分流儀の始祖や伝説的な武芸者だったと思うのですが・・・もうそれはファンタジーですかね。いや、意外にそういう武芸者は世に出ないものなのかも知れません。
死ぬまでにそれら理想の動きをマスターできたらいいなと思いつつ、日々地味に試行錯誤しつつ稽古をしています。
令和五年長月二十六日
不動庵 碧洲齋