不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

一座の功

白隠禅師和讃という臨済宗の坐禅会でよく唱和されるお経の一節にこのようなものがあります。

一座の功をなす人も積し無量の罪ほろぶ
(たった一度の坐禅ですら、今まで犯してきた全ての罪が消え去る。)

坐禅の功徳を説いたものですが、私は32の時からかれこれ20年以上、禅に惹かれてささやかながら修行を積んで参りました。
家の仏壇の前の座布団は家で坐禅をするときに使っているものですが、よく見ると緑色の生地にあちこちシミがあります。これは朝起きたり、夜寝る前に坐禅をする折、短パンを穿いて坐るため、結跏趺坐を組むと膝裏から汗が滲み出てしたたり落ちるためにこのように汚れてしまいます。(そう考えるとカバー付きのを買えば良かった・・・)
それ程気にもせずに使っていましたが、最近よく見るとあちこちシミだらけになっていて改めて驚きました。自分的にはそれほど坐っているようには思っていませんでしたが。
もっとも20年坐ったからと言って何か特別なことを悟ったりしたわけではありませんが。
心の中の雑音が鎮まるその間が何とも希少な時間に思います。これは武芸の稽古中にもあることですが。

好きこそものの上手なれ、という言葉は真理だと思います。
遠からず好きなことで身を立てていければ、と最近はよく思うようになりました。

 

令和五年葉月十二日
不動庵 碧洲齋

 

Chat GPTデビューは公案から

先ほど唐突にあることを思い付いて早速、遅まきながらチャットGPTのサイトからアカウント登録をしてみました。公式サイトは英語ですが、質問窓に日本語で質問文を入れると普通に日本語で返ってきます。恐るべきツールですね。

で、何を質問したかったのかというと、何を隠そうズバリ「公案」(笑) 
これ、質問した人いるだろうか。早速チャットGPTに幾つか質問してみましたが、さすがひとつもカスリもせず。もちろん分かりやすいように現代語で質問しました。

回答は全て完全に客観的な回答になっています。なるほどAIはそのようにものをみているのかと、大変参考になりました。AIは主体になることがない、という事です。幾つか公案を試したあとに、こんな質問をしてみました。

問「あなたには禅の公案は解ける?」
答「はい、私には禅の公案について知識がありますが、私自身は人間ではなく人工知能ですので、解けるかどうかは難しいです。禅の公案は、禅宗の修行や悟りを追求するための問いや謎のようなものです。それらは一般的に、通常の論理や思考だけでは解決できないような深い哲学的な問題や矛盾を含んでいます。
解答は一意ではなく、多くの場合、直感や瞑想による洞察や体験を通じて理解されることがあります。禅の公案は、禅僧たちの修行や悟りのプロセスを促進し、深い洞察力を培うためのツールとして使用されます。
私は知識ベースとしての情報を持っていますが、直接的な体験や洞察を持っていないため、個別の禅の公案に対して答えることはできません。ただし、禅の哲学や歴史についての一般的な情報を提供することはできます。具体的な公案に関しては、禅の修行をしている資格のある指導者に相談することをお勧めします。」

更にこんな質問もしてみました。
問「そのうちAIでも禅の公案は解けるようになると思いますか?」
答「AIの技術は進化し続けており、一部の複雑な哲学的な問題や謎を解決する能力も向上しています。特に自然言語処理の分野では、AIは論理や文脈を理解する能力が高まってきています。
しかし、禅の公案は人間の直感や洞察力によって理解されることが多いため、AIが完全に解決できるかどうかは難しい問題です。禅の公案は単なる論理的なパズルではなく、深い哲学的な意味を持ち、個々の経験や修行を通じて理解が深まるものです。
AIが人間の直感や洞察力に近づく可能性はあるものの、現時点ではまだ完全な理解を持つことは難しいでしょう。禅の公案は人間の心や意識に深く関わるものであり、AIにはそういった内面的な側面を持つことが難しいと考えられています。
したがって、AIが禅の公案を完全に理解するかどうかは未知数です。ただし、AIの発展が進むにつれて、より高度な哲学的な問題に取り組む能力が向上するかもしれません。しかし、それでも禅の真髄に迫るには、人間の経験や洞察力が重要であると考えられます。」

かなり正直かつ謙虚な回答に感心しました(笑)
いや、AIが公案の見解を見事に言ったら「師匠!」って言ったかも知れない(笑)

ま、個人的には面白いチャットGPTデビューになったと思います。

令和五年文月二十九日
不動庵 碧洲齋

 

黄檗宗 黒瀧山 不動寺

お題「思い出の場所」

私にとって思い出深い場所は群馬県南牧村にある黄檗宗黒瀧山不動寺です。

2002年のGWの1週間前にたまたまNHKで放送していた「小さな旅」を観ました。
その回では群馬県の山奥にあるお寺を紹介していたのですが、大変素晴らしい景色に目を奪われて、早速GWに行ってみました。

上信越自動車道を降りてから田舎道をひたすら進み、南牧村という山間の村に向いそこから更に山道を数キロほど走りました。軽自動車でも少しひやりとするような細く所々未舗装の道が続きました。

思いもしないところに駐車場があり、そこに車を止めるとそこから徒歩で登りましたがテレビで見た以上の絶景が広がっていました。文字通り崖っぷちに建てられている寺院で南以外の三方をほぼ垂直の崖に囲まれていました。GWというのに観光客もほぼおらず、静謐さが保たれた深山の古刹でした。

立ち尽くしていると住職が出てきました。そもそも私は今まで僧侶なる人とは法事以外で対面することもなく、ましてや話す機会もないほど縁の薄い対象でしたが、不動寺の住職は大変親身になって歓迎してくれました。

不動寺の本尊は不動明王ですが、私の生まれ年は酉年で守護本尊は不動明王になります。また武芸を嗜んでいることからやはり修行を護持してくれる仏と言うことで今まで何となく親近感を持っていたものの、この時以後深く帰依するようになりました。

また、黄檗宗は禅宗です。この時初めて座禅の指南を受け、以後現在に至るまでずっと座禅を続けています。今や私にとって禅は武芸と両輪の輪のような教えでもあります。以後、概ね月に1度は訪れて禅や武芸の修行に明け暮れました。境内の近くにある馬の背や近くの山峰などにもよく足を運んだものです。時には奉納演武なども行わせていただきました。ここでは普茶料理もあり宿坊として投宿することも可能でした。

大変残念なことに住職は5年前に他界されてしまいましたが、今でも私が禅仏教に深く帰依することとなった思い出の場所です。

令和五年卯月二十日
不動庵 碧洲齋

 

國肇之地

20日に広島を出立して新幹線で大阪まで来ました。
予約していたホテルにチェックインを済ませてから現地の同門武友と会って食事。
関東以外の同門と関東以外で会うのは初めてですね、国内は。
その武友、実は気功師なんですよ。言い方合っているのかな?
要するに気功で治療をする人です。
食事をしてその帰路にちょっとやってもらいました。
年末に障子貼りをしてからどうも重い腰が治らなかったので立ったままでしたが、腰に指を当てて治療してくれました。しばらくするとビリビリとした感覚が伝わり、更に時間が経つとじんわり暖かくなります。大体20分程度でしょうか、終わったことには腰が軽くなった感じがしました。
ちなみにはっきり体感したのは翌日以降です。いや、気功本当に凄い。
彼は誰かから教わったのではなく、自然にできるようになったとのこと。
羨ましいですね。

翌日は早朝からローカル線に乗って奈良県橿原市に行きました。
橿原市は武神館先代宗家の故郷で、現宗家が若かりし頃、週末に夜行列車で千葉県野田市からここまで来て稽古を付けてもらいました。14年続きました。凄い執念です。当流の外国人門下生たちも年に1度、或いは数年に1度は来日して稽古する人がいますが本当に頭が下がります。私が外国人だったら多分日本には行かないでしょう(笑)

最初に行ったのはもちろん橿原神宮。伝説によると東征を終えて大和地方周辺の平定も終えた彦火火出見(ひこほほでみ)は紀元前660年正月1日、畝傍山が南面するこの橿原神宮がある場所で戴冠式を行い、日本国初代天皇、神武天皇となりました。爾来、今上天皇陛下は第126代にして世界最古の王族であり日本は世界最古の国家になります。2番目に古い國がデンマークでそれでも1000年ちょっとですから日本の古さがどれ程か分かろうものです。

実は橿原神宮はそれ程古い神社ではありません。創建は明治に入ってから、1890年、明治23年です。それでも戦前は官幣大社に列されていて現在も皇室から定期的に勅使が来るという神社です。
ちなみに橿原神宮が創建された時に当流の道場訓が作られました。先代宗家が何か思うところがあって書いたのでしょうか。

朝だったためまだ人も少なく、心静かに皇國と皇室の安寧、ひいては世界の平和と調和を神武天皇に祈りました。




それから北門から北上して神武天皇陵にも参拝しました。私以外はもう一組いただけでそれ以外は誰もおらず。森の香りと静寂の中に大和の国の気高さを感じました。ここは皇室の方々もよく参拝に参ります。
ここでもいつになく真剣に祈りました。どうかこの世界最古の國、大和の國をお守り下さい、戦に投じさせないでください、あまりにも真剣に祈ったので手が震えました、ま、誰も見てなかったからいいんですけど(笑) 草民の願いはきっと歴代天皇の御霊の御照覧あるべし。叶わぬはずがない、そう信じています。

それから駅の方向に引き返し、奈良県立橿原考古学 研究所附属博物館に行きました。さすが大和の地だけあって展示品の多さは素晴らしかった。時間の制約がなかったら橿原に一泊しても良いと思うくらい。古墳の数とかが尋常ではないので出土品もかなり多い。日本語どれだけ古い国か分かりますね。

橿原神宮前駅にあった看板「皇紀2700年」ですか。17年後私もぜひ祝いたいところです。

橿原之地は大和之國発祥の地であり当流の故郷でもあります。
またぜひ参りたいと思います。

これで今回の旅の記録は終わりです。

令和五年弥生二十一日
不動庵 碧洲齋

 

 

寺庭の炎

此度福山を訪れた理由は福山から車で1時間ほど山に入った神石高原町にある光信寺という寺に友人が働いていたから。その友人はオーストラリア人なのですが僧侶で、縁あって光信寺に勤めています。

光信寺、奥が本堂

光信寺はバブル絶頂期に近隣の造船会社によって建立された禅寺ですが、リゾート的な目的もあり、境内には大浴場や食堂、宿泊施設があります。また100人以上が入れる禅堂などがあり、ちょっとした大本山級の大きさと言えます。石庭も大変広く、素晴らしい。

本堂内部、割にシンプルな作りです

100人以上収容できる禅堂


また寺には養鶏場や田畑もあるのである程度自給自足しています。卵などは1日約100個弱採れるそうです。 実際養鶏場まで行ってエサを与えるところを見てきましたが結構鶏がいました。

寺に隣接して温泉もありますが、我々はそこから少し離れたところにある神石高原温泉の方に行きました。pH10.4と書いてありましたからかなりのアルカリ性です。実際風呂に入ると少しぬめっていました。ただし普通の温泉よりも心地よかった。しかも光信寺隣の温泉よりもずっと小さいので人も少なく、落ち着いて入れました。

案内された部屋はなんと15畳!私の部屋の倍です(笑) 目の前は石庭があり大変素晴らしい部屋でした。友人以外にも数人働いていました。偶然にもその1人は以前、私と同じ草加市に住んでいたことがあったとかで世の中は結構狭いものです。

見事な石庭

温泉に行って寺で打った蕎麦などを食べて腹を満たしましたが、丁度先ほどまで介護関係職員のレクレーションのためにキャンプファイヤーを寺庭でしていた関係で、まだ炎がいい感じに燃えていました。寺庭と言っても学校の校庭ぐらいもあるのでかなり広い(笑) その中央に炎があって、周囲は山なので完全に暗闇。寺の入口の照明が少しだけ見えるといった状態。
空を見上げると満天の星空でした。地面には赤々と炎が燃えていて空は満天の星空。ここ最近経験しなかったような幻想的な風景でした。

入口にやや長めの竹が立てかけてありました。
それで炭をかき集めたりしていましたが、そのうちちょっと振ってみたりしました。元々私の得物は鎗ですので、何やら焚き火の前で一心不乱に鎗を繰り出す始末(笑) 誰もいなかったからやり始めたのですが、誰かが見ていたらかなりアブないヤツだと思われたことでしょう。幸い夜間の寺には豪州の友人だけが住んでて、その日のゲストは私だけでしたが。

焚き火周りで修練をする

そのうち火の明かりが届かない闇からふと誰かが抜け出てきた気配がしました。同じような棒を持っています。
そしてもの凄い速さと角度で突いてきます。私もギリギリで躱して反撃します。
秘術を繰り出してその闇の相手を撃破しようとしますが相手もかなりの遣い手、センチ以下で見切られて躱されてしまいますが、同じく相手の攻撃も私は体にかすりそうになるほどで見切り、避けます。
相手が互角だと逆に見事な同期が取れる動きが現れます。
どちらも息をも漏らさずして静かに攻防を繰り返しました。

ふと相手が闇に戻るとまた、炎がはぜる音と静寂が戻ってきました。
その相手は少し前の私だったのか、少し後の私だったのか。
自分で自分を倒すには昨日よりも強くないとできないこと。
武芸者に休みは無いということでしょうか。そうかもしれません。
昔山籠もり修行をしていたときにもそいつは現れました。山には不思議な力があるものです。
故に昔から山は修行の場とされてきたのでしょう。
その夜はだだっ広い大寺院の一角で寝ました。ここまで静かだったのは久し振りです。

自灯明法灯明の趣あり

翌朝は6時前に起きましたがまだ山間部では薄暗く。7時少し前にやっと明るくなりました。
軽く朝食を取り、7時過ぎに光信寺を後にしました。

令和五年弥生十九日
不動庵 碧洲齋

浅草の様子

昨日は兵馬俑展に行く前に線香を買いに浅草まで行ってきました。

いや、驚きましたね、コロナ前の状態です。

どこも人だらけ。中国語はよく聞こえてくるのに妙に和やかで無礼者が少ないと思ったら・・・台湾人が多いそうです。なるほど。

和服レンタルを利用している人も多かったのですが、何故かタイやベトナムの伝統衣装を着て浅草寺の一角で写真撮影をしている人も多くて驚きました。着ている女性も美人でしたね。

なんかこう、コロナ前の観光地に戻った感じがしました。もちろん今は中国や東南アジアでは旧正月ですから、それで訪日観光者数が多いと言うのもあると思いますが、外国人観光客の本当に嬉しそうな表情を見ていると思わず手を合わせたくなりました。

私はいつも不動堂、本堂、影向堂で手を合わせますが、特に本堂が大渋滞していて大変でした。

恐らく春節後はいったん落ち着きますが、さくらの季節になる頃から後はまた、コロナ禍前の様子になるのではないかと思っています。

これは他日撮影した本堂。昨日は人がギッシリといた。

 

令和五年睦月二十三日

不動庵 碧洲齋

今年の坐禅終了

10月から中野区にある高歩院の鉄舟会に毎週金曜日の夜坐に参加していましたが、本日は初めて月一の土曜日の法話会なるものに参加しました。
が・・・常連しか来ないので結局法話はなしという運びに(笑) 全くの新参者の私に意見を求められたのが困った(笑) 要は常連しか来ないので、毎回新しく話を聞きに来る人のために考えられた法話会は常連にはつまらなさすぎるとか、そう言うことのようでした。ま、私は坐れればいいのですけど。
鉄舟会に参加してから少し困ることがあるのは細かいシキタリが違っていていること。今回は関係ありませんが、三拝のやり方がどうもおかしかったり、本堂入退堂時の一礼のタイミングも違ったり。本日は茶礼がありましたが、確か総茶礼の時って飲んだらすぐ茶碗を畳に置いて良かったと記憶していたので置こうとしたら隣の常連さんから「まだ置かない!」って言われました(笑) 普通の茶礼の時は制式には奥から茶碗を置いていたように記憶してましたが・・・。そしたら今度は老師が「総茶礼では各々飲み終わったら置いてよい」と仰ったので逆に私の方がばつが悪かった(笑) 
ま、坐禅会で色々違うという事です。ただどこまで違っていいのかは疑問には思います。

鉄舟会で有名なのは「書道」。はい、体験いたしました。
不肖この碧洲齋、昔から字が下手なのでかなりコンプレックスを持っております、はい(笑) しかも書道なんてもうかなり長い間やってないし。筆ペンを握るぐらい。と思ったらまず通常の4倍以上もある大きな硯で墨を摺ることから始まりました。たっぷり30分もかかりました。常連の方も含めてキツかったです。こんな大量の墨を摺ったことはありませんでしたが確かにこれだけで無心になります。参加者のうち大半は年末大掃除をしていて、書道に参加したのは新参者の私、久々に参加の老婦人、若い常連さんとよく顔を見る常連さんの4人だけでした。で、老師は我々2人を指導していただいたのです。
確かに最初は技術ではないようです。技術も必要ですが、まずは禅マインドのまま筆を進める。具体的な指導をうまく書けないのが残念ですが、唸らずにはいられないもの是在り。
老師の指導もなかなかで、私が一番最初に書いたヘナチョコ作品に較べて一番最後に書いたのは自分が書いたとは思えないほど躍動感のある書でした。なるほど老師が意図するところが少し分かった気がします。
禅に関して私は全く思い上がっていないと自信を持っていますが(笑)、書の指南でまだまだ至らぬと思い知らされ、それが妙に嬉しく思いました。この歳になるとあまり注意してくれる人がいません。甘ったれるなと言うことでしょうが、逆に言えばこの歳になった自分に何かと指導してくれる内容は金銀よりも貴重です。

しかしその・・・山岡鉄舟先生揮毫掛け軸の隣に私(たち)の書を貼るのは止めて欲しかった(笑) ホント心が折れそうだった(笑) いやいや光栄でした。

 

令和四年臘月二十四日
不動庵 碧洲齋

これについては何もコメントしないで下さい(笑)