不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

不動庵道場訓

来年からボチボチ弟子を取って指南をしようと考えてますが、追い打ちを掛けるようにまた出てきたコロナウイルスのオミクロン株が気がかりではあります。
令和に入った頃から指南することを考えていましたが、指南の指針として、武神館道場訓とは別に当道場のローカル道場訓を掲げようと色々案を練っていました。

概ねの内容は割と早くから出来上がっていましたが、文章全体のバランスや前後のバランス、序列、表現、高尚さなど、3年近く色々推敲してきて、やっと満足がいくようなものになりました。もうこれ以上は推敲できない、というぐらいやり尽した感ありです。
それぞれの項目は短歌形式(5-7-5-7-7)にしました。また私の理念である「武」と「禅」を大いに盛ったものにしました。

一、人が道 清く正しく 美しく 心気高く 和こそ貴し
昭和時代の「人としてあるべき指針」というのが「清く正しく美しく」だと何かで読みました。
ベタすぎる昔懐かしの標語ですが、私はどうしても人としてまずこれありきではないかと思い、一番最初に置きました。心気高くというのも難しいですね。美学を持つというのか、信念を持つというのか、卑しい人であってはならないという意味です。最後の「和こそ貴し」は日本人特有の在り方そのもので今更ながら説明する必要もありません。

一、不動尊 義心憤怒を 見せるとも 内に秘めるは 慈悲なりと知れ
不動尊とは不動明王のことです。私は酉年生まれで初めて禅の手ほどきを受けた寺も「不動寺」だったので。不動明王は一見、恐ろしい形相をしていますがその内、どんな人でも救おうという慈悲を持っています。これは日常生活に当てはめると、思いがけぬ不幸や他人からの嫌がらせ、相手が意図することであろうと自然災害であろうと、それは一見恐ろしげ、疎ましく思っても、天意は多分、あなたが人として向上する上でもっとも相応しい試練を与えているのだと言うことです。

一、武芸とは 遣はざること 誇りては 忍び耐へつつ 時あるを知れ
現在はネットが発達していることもあり、自分を他人に見せたくなるものですし、使ってみたくもなります。悪意がなくとも自分の力量を測りたいと思わぬ武芸者はいないと思います。しかし、本当にギリギリ使わざるを得ないような状況というのは滅多になく、恐らく一生使う機会がない方が大半だと思います。そういう平和にこそ誇りを持ちつつ、それでも一旦急あらば、という時が来ても良いように日々の稽古に励むという事です。

一、武を鍛へ 禅を行じて 深まりし 智慧こそ悟り 天命を知れ
武芸と禅の修行を行い、その智慧を深めていき、自らに課せられた天命を知ると言うことです。私もこの歳になってやっと、そういうものがおぼろげに見えてきました。「武を鍛へ 禅を行じて」と書きましたが本来の意味は「武で鍛へ 禅で行じて」です。自分を武と禅で磨き上げて高め、自分がすべき事を知るという意味です。

一、己とは 徹し尽して 空となし 無より顕る 尊きと知れ
これはちょっと難しいのですが「自分」というものの禅的定義についてです。「オレがオレが」と人はなりがちですが、何かに対して無心になってその行為に徹底するその状態があり、そこから我に返ったとき、多分、自分の在り方というものが理解できるのではないでしょうか。一度自分を勘定に入れないで物事を計ってみる、そんな感じだと思います。


とはいえ、改めて見るとあまり武芸の道場訓っぽくないですね(笑)
ともあれこれを以て当道場の指針として参りたい所存です。


武神館 不動庵道場訓

一、人が道 清く正しく 美しく 心気高く 和こそ貴し
一、不動尊 義心憤怒を 見せるとも 内に秘めるは 慈悲なりと知れ
一、武芸とは 遣はざること 誇りては 忍び耐へつつ 時あるを知れ
一、武を鍛へ 禅を行じて 深まりし 智慧こそ悟り 天命を知れ
一、己とは 徹し尽して 空となし 無より顕る 尊きと知れ

 

令和参年辛丑臘月吉日
不動庵 碧洲齋 記

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