武芸と禅と言うと、結構な繋がりがあるようにイメージされる方が多いと思うが、実際のところ個人的にはそれ程関係があるとは思っていない。
同門の中にはただ坐っていることに意義を感じず、そんな無意味なことをするなら稽古をしていた方が有意義という人もいる。
実際問題として、禅はあくまで方法論のひとつ、考え方のひとつなので、無意味だと思ったら無意味、意義ありと思えば意義あり、その程度だと思っている。
ただ少々失笑せずにはいられないというのか何と言うか、禅について誤解が多いことがある。「坐禅=禅」ではないということ。それなりに禅をしている人なら分かっていると思うが。
例えば木刀の素振りをしているのを武芸とは全く関係のない人が見ていたらもしかしてこう言うかも知れない。
「棒キレを振り下ろす動作を何百回やって意味あるの?」
坐禅=禅を誤解しているのはざっくりこんな感じだと言える。
その上で禅は武芸をしている人に対して須く効果あるかと言えばそうでもなく、やはり向き不向き、好みもあると考える。禅も武芸も一緒にする必要性はそれ程ない。
私にとっては武芸と禅は両輪の輪だが、万人向けではないかも知れない。
ただ禅仏教は鎌倉時代から現在までずっと続いているものなので、武号との関係のあるなしは別として、存在意義はあると考える。
昨今では海外にもZENは普及しており、国際的な価値観としても有意義と考えられている。
一説には江戸時代に70歳だった平均的庶民(多分農村の長老とか)の知識量は現代で言えば3-5歳児程度の知識量でしかないと言われている。私はこれは情報流入量だと解釈している。
私たちは毎日膨大な情報に飲み込まれてかき混ぜられ溺れている。特にインターネットが普及して以後は顕著に。
江戸時代、「何も考えない時間」というのはごくありふれているものだったかも知れないが、現代において「何も考えない時間」というのは大変贅沢で貴重な時間だと考える。今日的禅の意義のひとつはそういうものかも知れない。何も考えず自分と向き合うという時間は、現代においてはなかなか得がたい時間だと心得る。
江戸時代ぐらいまで見照した(悟った)僧侶は多かったが、情報流入が多くなった現在では江戸時代の僧侶がみた見照はなかなか難しいかも知れない。これは私の禅の師が言ったことだが。
禅は武芸に必須ではないが、あまり自然的とは言い難い現代社会生活において、心を整える、リフレッシュするにはいい方便のひとつとは言えるかもしれない。
令和二年睦月九日
不動庵 碧洲齋
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