不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

劫即刹那

「劫」とはよく「未来永劫」などにも使われる表現ですが、原典は仏教における最長の時間の長さで「43億2千万年」を指します。ほぼ永遠を意味するような感じでしょうか。
「刹那」もよく使われる時間の表現ですが、これもまた原典は仏教で、1/75秒であるという説もありますが、要するに「極一瞬」と考えてよいと思います。

さて、今年に入ってから縁あって坐禅をしている寺で月に何度か泊まり込みで作務をさせていただいております。
臨済宗建長寺派の準本山格の寺で、建長寺派の筆頭寺院と称しても良いでしょうか。
故に境内は墓地を含めて恐ろしく広大です。多いときは常住(住み込み僧侶)と出勤する僧侶4.5人と庭師で庭の手入れをすることもありますが、それが十分に間に合ったことはほぼありません。特に私は法事には関わらないので他の僧侶とは異なり文字通り一日中作務が続きます。
落ち葉拾い、草引き、掃除など、境内の広さも相俟って終わりのない、ほぼ無限と言える自然の営みに人が非力にも立ち向かっている図です。
私はそのような中に身を投じて毎回せっせと庭掃除や座禅会が行われる禅堂の掃除などをせっせと行っています。

個人的にはもちろんですがこれを自分の修業と捉えて行っています。もしかしたらここの住職である老師もそう思って指名したのかも知れません。
終わりなき作務ですから、捉え方によっては放棄したくなるかも知れません。あるいは面倒になって適当になってしまうかも知れません。これがずっと続くと思うと暗澹となる気持ちは抑えられないかも知れません。疲れてくると落葉が一枚落ちていても拾う労力も惜しみますし、ごく小さな雑草が眼についても見なかったことにしたくなります。拭き残し、掃き残しがあっても「まあいいか」と思ってしまいがちなのが良し悪しはともかく人の性です。
このように未来永劫終わりなきようにも思える作務をどのように捉えてこなすのか、これは私自身に与えられた公案と受け止めた次第です。

過ぎ去った過去を思い返しては改めてその時の疲れを思い出し、まだあと何時間もある作務を想像しては未来を憂うる。この時間軸がある限りは劫の苦しみから脱却することはできません。この苦しみはかなり辛いものがあります。ただこれから脱却する方法もあります。
雑草を抜くその刹那になる、落ち葉を拾う刹那になる、枯葉を集める刹那、雑巾をかける刹那、水の冷たさそのもの、脚の痛みそのもの、すべてその一瞬のそのものに成り切って、それ以前の過去やそれ以後の未来を一切想わない。つまり過去や未来とは切り離された今この瞬間、刹那に成り切る、これではないかと思います。
よくナントカ三昧と言われますが、まさにそれを行っている主体である自分が無くなってしまうほどにそれに成り切ることによって、劫を想うことに端を発する苦しみから逃れ得るのではないかと思っています。

確かに劫は存在するのかも知れませんが、そういう概念的な時の長さよりも、今リアルに生きているその刹那にこそ意識を向けて、可能な限り全うする。そうすることによって劫の苦しみは失せるのではないかと思います。

これが正解かどうか分かりませんが、今私はこの作務を1刹那1刹那に徹底し尽す気持ちで行っている次第です。

昨日、ふとその境涯を少し理解したような気がしたら老師から高級梅干しを頂きました、たまたまだと思いますが(笑)

令和六年水無月十日
不動庵 碧洲齋

本堂と開山堂

法要や葬儀が行われる会館と鐘楼

老師より頂いた高級梅干し