不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

初心忘るべからず

今朝、たまたま手にした円覚寺管長横田南嶺老師の本にいいことが書かれていました。ちょっと抜粋します。 修行といいますと、はじめ何も分からない修行僧がだんだん修行を重ねて偉くなっていって、先輩の雲水になり、役位という僧堂の運営に携わる立場になり、やがて和尚さんになってゆくと、修行が進んでゆくように思われます。和尚さんの中でも更に進めば老師さまや管長になってゆくよ思われるかも知れません。私も初めはそう思っていました。しかしこの頃はそう思いません。 「初発心時便成正覚」(初めて道を志す時にもう悟りは出来ている)という言葉があります。「その道に入らんとおもうこころこそ、我が身ながらの師匠なりけれ」という歌もございます。いざ修行しようと僧堂の門をくぐった時の心意気、これほど純粋な尊いものはありません。一番仏に近い、いや、仏さまそのものです。それからやるうちにだんだん仏から遠ざかってゆくように最近思います。遠ざかってしまって和尚さんになって、更に遠ざかって老師さまだ、なれの果てが管長であろうかと思っています。もっとも仏さまから遠ざかった果ての姿です。それ程遠ざかってしまったからこそ、初心忘れるべからず、初めて修行に志した雲水の姿をみて襟を正し、むしろ手を合わせます。 南嶺老師が坐禅会を主催している寺
画像
横田南嶺老師は鎌倉にある臨済宗大本山円覚寺の管長さまで、私の師匠の弟弟子です。50にならないうちに円覚寺の管長に就任されるという、大変な秀才肌です。禅僧になるために生まれてきたような方です。坐禅会で何度もお話しを伺ったことがございます。 私も武芸歴が長くなって参りましたが、毎日誡めること多々是在りです。 中でも数値化できる自分のスペックは万事排するよう努めています。数値化されたスペックそのものが正しいとか間違っているとかではなく、それは客観化された時点で既に自分の手を離れている、そう思うためです。 武芸歴何年、何段、門弟数、何をもらった、誰から褒められたなどなど、「他人と比較できる」要素はほとんど、自分から離れてしまったところにあります。だから本来自分と全然関係ないのかも知れません。私はそう思うようにしています。 相対化できない、対象化できないなにか、それだけが我をして一心に追い求めるべきものであり、本当のものだと思います。 ここ最近、たまたま私の入門時の話しが出たので当時のことを思い出していましたが、確かにあのときの気持ちを掘り起こすことほど、初心に還り、傲慢さを打ち消す方法はないように思います。 組織の本来の目的を忘れ、勢力争いや内部抗争、道徳や法律、規則を何とも思わない輩などは、まず間違いなく初心を忘れていると言えます。そういう人たちは独特の腐敗臭がする、最近感じます。 ニュースでは警察官や教師、医師、政治家など、昨今呆れかえって言葉もない犯罪を起こしてますが、犯罪を犯してしまった多くの彼らは昔、清雲の志を持ってその道に入ったのではないかと思います。 数値化や比較対象は組織を維持するため、社会を運営するために必要ですが、多くの人にとって自分自身を高めるためには前者ほどには必要としていない、そんな気がします。ま、文系の戯れ言とお笑い下さい。 私の師匠と南嶺老師が師事した小池老師の墓所
画像
平成二十九年皐月二十一日 不動庵 碧洲齋