不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

不動明王

私の生まれ年は酉年です。なので本尊は不動明王になります。

また、初めて禅の手ほどきを受けた寺の名前が「不動寺」、秘仏不動明王が安置されています。道場の名前も「不動庵」にしています。

武芸をしている人、修行をしている人にとっても不動明王は守護仏ですから、昔から何となく信仰してましたし、特に禅をするようになった約20年前からは強い信仰を持つようになりました。

仏壇には父が他界した年、2007年に買った不動明王が安置されています。本尊が大日如来ですから好一対ですね。大日如来の別の姿が不動明王と言われています。

基本、占いとかはあまり信じない方ですが、験担ぎにしていることがあります。私は密かに「不動占い」とか言ってますが(笑) 何のことはない、毎朝の読経をした後、不動明王像をじっと見て、怒りや悲しみの表情をしていたら今日一日何か良くないこと、悪いこと、面倒なこと、難題があるという徴で、微笑んでいたらいいことがあるという具合。仏壇の奥なので結構薄暗くて目を凝らしても表情まではあまりはっきりとは見えません。

去年ぐらいまでは不動明王像は色々な表情を見せていた気がするのですが、去年末か今年からはほとんどが微笑んでいるように見えます。私的にも今後すべき事がハッキリしてきました。もしかしたらそれが像に投射されたのかなとも思いますが、その方向性が間違っていないのだと密かに思っています。

ただ不動明王のご尊顔を拝する前の読経は一心不乱に大きな声で行うようにしています。邪念や雑念、私念が入らないように集中するように心掛けています。それがあって初めて正しく不動明王を拝することができると思っています。

皆さんにも何か験担ぎはありますか?

 

令和参年皐月十日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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我が家の不動明王

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坐禅

座禅会には大抵、暖かくなってくる頃に新規参加者がやって来ます。
雨後の竹の子のようなイメージでしょうか。
私が通っている寺にはあえて(だと思いますが)ホームページもなく、よく探さないと分からない程度の座禅会ですが、寺の規模自体は大きく、準本山級で老師以下僧侶は常に5,6人も在住してます。
坐禅をする禅堂も円覚寺禅堂の写しで本格的です。
常連が大半なのでたまの新参が来てもあまり定着しません(笑)
本日は新参が3人ほど来ましたが、去年はコロナもあって新参はほぼいなかった為、割と久し振りです。
ここの座禅会はそれ程親切に教えてくれない為、新参はなかなか戸惑うことが多いのですが、さて3人のうち何人が来月来るのでしょうか。

私がこの座禅会に参加するようになって14年目です。初めて来たときは末単で、本堂での提唱も老師から一番遠いところで聞いてましたが、いつの間にか老師から2番目に近いところまで順列が上がり、老師とも気兼ねなく話すようになりました。最初の3年は老師から呼ばれるとき「おい」とか「君」とかでしたが、3年後はじめて名前で呼ばれて感動したのを覚えています。よく見てくれていたんですね。

座禅会で坐禅の時間は朝6時から7時までの2時間ですが、私は1時間早く来て2時間坐ります。ここ10年以上私より早く来る人はいませんから、その1時間はなかなかプレミアムな時間ではあります(笑) そしてその1時間こそが私にとっては本当の戦いのような時間です。

今の私にとっては禅道と武道と両方が両輪の輪のようにはたらき、私を構成していると言って過言ではありません。初めて禅の手ほどきを受けたのは2002年で別の遠い寺でした。2007年までその寺に足繁く通って禅への理解を深めましたが、2007年初頭に父が他界した後、思う処あって秋頃に家からより近いこの寺ともう一つの寺を知り通うようになりました(両方とも老師です)。私の本格的な禅デビューはそこからになります。

人によっては「ただ坐っていることに何の意義も見いだせない」という方もいます。確かに「ただ坐っているだけ」ですが、外部には膨大な物質、膨大な情報が氾濫している現代、じっくりと内面と向き合う時間を持っている人が一体どれ程いるのかを考えると、「何もせずに内面と向き合う時間」が結構希少なものであると考えています。少なくとも私には大変有効でした。みんながみんなに有効であるとは思いませんが、お釈迦様の時代からカウントしても2500年ぐらいは続いていることですから、恐らく何か有益な効果があると考えてよいと思います。

座禅会は全国各地で開かれています。私が通っているのは臨済宗ですが、同系統で黄檗宗、別の禅宗として曹洞宗坐禅もあります。もしちょっと気になったり、心のわだかまりがあったらぜひ参加してみて下さい。何かしら得られるものがあると思います。

令和参年皐月九日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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三つ子の魂

「三つ子の魂百まで」という言葉があります。
大体3歳頃までに躾けられたことは百歳、死ぬまで忘れないというあれです。
武芸でも伝統芸能でも大体、最初に仕込むタイミングは3歳と言われることが多い。
息子には3歳ぐらいまでによく先祖の大切さや神仏の尊さをよく話してきました。
神社仏閣や先祖の墓に連れていき、祈ったり掃除をしたりと、結構宗教に接する機会があったためか、今でも墓参りには率先して行きますし、墓では掃除など進んで行います。道徳的に曲がったこともかなり禁忌という考え方も自然に身に付いているようです、多分(笑)
そういう意味で3歳頃までに身に付いたことは多分、潜在意識下に染みついたものだと思うのです。

私の場合武芸になりますが、幾つかの有名な古流の先生方には3歳から稽古を始めたという方がいらっしゃいます。幾人か直接お話しする機会もありましたが、風格や立ち居振る舞い、言葉遣いに至るまでやはりずっと後になって入門した人とは違うんですよね。
もちろん、幼少から始めても継続しないと意味がありませんが、幼少から始めてそれなりに継続していれば、例えば中学校や高校ぐらいから入門した人とは明らかに違いを感じさせられます。うまく言えませんが全く同じ技量であったとしてもそれ以外の部分で圧倒されるというのか。

何年か前に偶然、日本舞踊の先生と知り合う機会がありました。残念ながら住んでいるところは同じ県内でもやや遠いのですが、ここ数年で何度か会う機会があり、その度に痛感させられるものがあります。
彼女はまさに2,3歳から始めて30有余年ほどのキャリアを持っているので芸歴で言えば私とほぼ同じ長さのはずですが、それ以外の質の違いに圧倒されます。稟性があるというのか。立ち居振る舞いや話し方一つを取っても品格があります。(いや、もちろん大変美人であることは言うまでもありませんが)分野は違えども技量で同じレベルだったとしても、それ以外の部分で大分差があることを毎回痛感します(笑) たぶんこれが「三つ子の魂百まで」だと思います。彼女は私より10歳以上も年下ですが、そういう意味でいつも尊敬の念を抱きつつ、ふり返って我が身には嘆息ばかりします。

何かに書かれていたことですが、格は金や時間で買えるが、品は三代かかってやっと得られるものだとか。この歳になるとお金ではどうにもならないことばかり欲しくなります。例えば私は禅をしてますが、悟りの境地がどんなものか、大枚を払って体感できるならいくらでも(ってうちは貧乏ですけど)払って得たいと思いますが、悟りの境涯というのはお金でどうにでもなるものでもなし、これは本当に若い、いや幼い頃からやってなんぼというものなのでしょう。従って足りない部分は日々の精進工夫しかないようです。特に諦めているわけではありませんが、自然身に付いている人は羨ましいなとはたまに思います(笑)

故にそれ以外の部分、例えば技以外にも感性や知識など、埋め合わせられるものはできるだけと、欲を掻いて悪あがきをしている、これが今の状態でしょうか。私の場合、修行と言ってもあまり崇高なものではないですね(笑)

令和参年皐月九日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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#武神館 #初見良昭 #古武道 #武道 #武術 #道場 #入門 #埼玉 #草加

心の輝き

私の部屋の前の庭に毎年この時期になるとこの花が咲きます。
昨今は便利なもので、華には全く疎い私でもネットで画像検索すると簡単に出てきます。
あまりよろしくないですね、風流さに欠けます。そしてそういうものは人の品格に表れます。
この歳になると若い頃いい加減に生きてきたツケがポロポロ現れてきて、内心オロオロしてます。
ネットで検索するとこの花の名は「ムラサキカタバミ」で春後半から初夏頃に咲く花だそうです。
原産は南アメリカとありますが、江戸時代末期に観賞用として日本に持ち込まれて以降、日本に広く帰化しているそうです。一方で環境省により要注意外来生物に指定されている品種だとか。幕末に海外から持ち込まれた野菜や観賞用の花は多いですよね。日本人の風流さが光ります。どこの国の船で持ち込まれたのでしょうかね。

日本では古くから紫色は高貴な色とされています。現在は違うようですが、江戸時代は紫色の法衣は名のある僧侶が天皇から下賜されたほどです。
要注意外来生物ということですが、撤去するのも些か風情が無いと思うのでついでにこのムラサキカタバミ花言葉を調べてみました。

「輝く心」「心の輝き」

エエ歳して大変感銘を受けました。特に今、これらの言葉に大変想う処是在りです。
心は見えないはずですが、心が輝いている人とそうでない人の差は一見して歴然とします。
何とも不思議な話ですが。
私もよく歳より若く見られることがありますが、もしかしたらヲタクっぽい求道精神やきれいなお姉さんを見たら素直にそう思える感性の賜ではないでしょうかね(笑)

何かにおいて生涯、道を歩むべくもがくことは良いことです。
何の問題もない、とか、生活に全く苦労しない、という負荷のない状態では心はあまり健全ではないのかも知れません。私の禅の師匠は「お金は少し足りないぐらいが良い」と言ってました。ま、うちは少しどころではないので今少し我が身のふがいなさを反省せざるを得ませんが(笑)
ただその他色々な意味で負荷があることはよくよく思い返せば道を歩むという意味ではなかなかうまくできたシチュエーションだと思わなくもありません。神様はいるという事でしょうかね。

令和参年皐月八日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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庭前のムラサキカタバミ

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武道と格闘技

武道と格闘技という語はあるものの、実はそれ程明確な境界線があるわけではありません。
明確な部分とそうでないものがあるという意味でしょうか。
客観的にも違えば主観によっても違うという意味もあります。
実はこれに関しては国語辞書でもずいぶんといい加減なことしか書いてないなぁ、と言うのが正直な感想です。
もちろんですが優劣を比較することもほとんど意味がありません。
そもそも戦闘能力は個体に依存するものであり、ちょっと古流を習った人よりも、格闘技や武道と全く関係ないラグビー選手の方が強いこともあり得ます。
武道と言っても古流やスポーツ化した武道に分けられると思いますし、格闘技もスポーツとして認識されている格闘技や武道もあれば、総合格闘技もあります。
どれか一つを取り出して比較することはそれ程意味があるとは思えません。
逆にそれぞれの流儀の長所に注目することは有意義だとは思います。

客観的には武道の中でも試合のあるなしで分けられると思います。柔道、剣道、薙刀道、弓道などは学校でも普及している武道として知られています。学校ではありませんが、空手道も試合があります。同じ武道でも古流に分類される流儀では試合はありません。有名どころでは柳生新陰流とか鹿島新当流、香取神道流でしょうか。私が所属する武神館でも試合はありません。古流ではありませんが合気道も試合はありません(団体によっては試合がある団体もあります)。試合のあるなしはどちらにもメリットとデメリットがあるのは確かです。

実は私はやったことはないのですが、弓道のスタイルはいいなと思います。試合はあるものの、日々の稽古は矢を射るという所作そのものが万芸に通じるように思います。試合はあくまで補足的な意味合いがあるように思う為です。試合があるとどうも試合の勝ち方、勝つ為の訓練、知識になりがちな部分があります。個人的には格闘技者は勝利を摑む過程が重要で、武芸者は生き延びる為の修行が重要だと思っています。格闘技家、武道家、というのはその道の大家です、私は一武芸者でありたい。

スポーツ格闘技だと「引退」があります。競技によってはずいぶん早い引退があります。武道には基本「引退」というものはありません。死ぬまで現役です。試合がある武道では選手としては引退してもやはり武道家であったりと、色々選択肢があります。ボクシングでも引退してもトレーナーになることはりますが、プロボクサーの場合はライセンスがあって、基本的には36歳までしかプロでいられないようです。もっともプロでなくなっても自分がボクサーだと思えば一生ボクサーだと思いますが。
求道者というのでしょうかね。求道者という言葉は好きです。格闘技をする人でも武道をする人でも求道者というのは割合似ている部分があると思います。


引退のない武芸者は死ぬまで武芸者です。私は武道の大家、武道家にはなりたくありません、一武芸者で大いに結構です。古来より伝わる先人の知恵を以て世を生き抜くサバイバーでありたいと思っています。そのための日々の小さな積み重ねが肝要ではないかと思う今日この頃です。

 

令和参年皐月三日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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