不動庵 碧眼録

日々想うままに徒然と綴っております。

恒常心

子曰、歳寒、然後知松柏之後凋也。

子曰く、歳寒くして、然る後に松柏の凋むに後れるるを知る。

 

これは「論語」の中の子罕編の言葉です。私が結構気に入っている言葉でもあります。
意味は冬になって寒くなってきて初めて、松や児手柏が緑の

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児手柏


ままであることを知る、という意味です。
つまり夏には緑が生い茂っていても、冬になると常緑樹だけが緑のままという事ですが、人も同じで苦しいとき、厳しいときにこそその人の真価が顕在化するということです。

 

此度のコロナ禍ではどんな緑を見せられたでしょうか、葉は落ちてはいないでしょうか。自らを点検します。孔子の理想は夏は慎み冬は挫けず、常々恒常的であることが君子であるという事ですが、このような恒常心を持つのはなかなか楽ではありません。私は他に「得意淡然 失意泰然」という言葉も好きですが、「人間万事塞翁が馬」みたいな諦観を普通に受け入れられたらいいのですが(笑)

 

いいことがあったときほど慎重にあるべし、というのは慎重すぎますかね。

 

実はつい先ほど、長らく解決できなかった恒常的稽古場所の確保が相成り、「やった~」と舞い上がりたい気持ちを抑えてこれを書いてます(笑) 戒めとして。ま、実際、コロナ禍が今後どのように推移していくかまだ予断を許しませんし、門弟募集をどのようにするのか決めてませんし、まあこれからですよ。

 

一応、ご興味ある方はご連絡くださいませ。

武神館 不動庵道場
師範 中代(なかだい)
稽古場所:埼玉県草加市谷塚上町の谷塚上町会館
時間:暫定で月曜日、火曜日いずれかの夜、19時頃から。
東武スカイツリー竹ノ塚駅から出ているバスで10分ぐらいです。
まだいつから始めるか未定ですが、年明けぐらいを考えてます。

 

令和参年神無月二十四日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

 

弱肉強食と適者生存

前のブログの続きです。
伝統古流武術と競技総合格闘技の違いについて。

 

私個人としては双方の違いをこんな風に捉えています。

 

前のブログにも書いたように、双方を較べることにそもそも無理があります。強いて言えばそれは長さと重さを較べてどちらが大きいと言っているような感じでしょうか。

例えば武術では「フェア」で戦う必要はあくまでも相手や周囲のニーズに応じたエチケットやマナーの類であって、必ずしも守らねばならないものではありません。逆に競技総合格闘技は絶対に守らねばならないものです。


私は昔、小太刀と鎗を学んでいた時、先生に5人で組めと言われそうしましたが、自分は小太刀1本、相手は鎗を持った4人という状況下で組み太刀をさせられました。武術ではそういう状況もあるのです。


これは極端かも知れませんが、相手が武器を持っていることはごく普通というシチュエーションで稽古することは古流では全く珍しくありません。競技総合格闘技では通常あり得ない状況です。もちろん優れた方であれば相手が武器を持っていても対処できるとは思いますが。

 

それと武芸に於いては勝てそうに無い相手から「逃げる」こともオプションとしてあります。逃げることも許されています。しかし競技総合格闘技ではまさかリングの上から逃げるわけにはいきません。オプションとして逃げるというのは基本ありません。

 

競技総合格闘技はあくまで「技量を競って優劣を付ける」ことが目的です。
伝統古流武術は「生存する」ことが目的で、非常時ではそれはほぼ戦闘時を想定しているので武技を用いることとイコールな為、自衛のためにそれを駆使しますが、生存できるなら逃げても良いわけです。

 

そう考えると、こんな風に言い当てられるのかなと思ったりします。

伝統古流武術 : 適者生存
競技総合格闘技: 弱肉強食

 

人によってはそれでも比較した場合どうなんだと食い下がる人もいます(笑) 私は流派や団体で強弱はないと考えます。人それぞれです。強いて言えばその日その時その場所でその相手に対してたまたまコンディションが僅かに優れていた場合、或いは身体や脳力が優位だった方に勝ちがあります。そしてそれがいつ来るのかは分かりません。

 

なので武芸者はなるべくハイスペックな状態を恒常的に維持することを心掛けているわけです。競技格闘技家は任意の試合のために調整してそこまでに最大のパフォーマンスを持って行くことが求められます。それ程違うものに比較することがどこまであるのか微妙に思います。

 

令和参年神無月七日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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伝統古流武術と競技総合格闘技

最近ツイッターを眺めていて割と盛んなトピックがあります。ズバリ
「スパーリング」(笑)
スパーリングがない格闘はあり得ない、弱い、使えない。
伝統古流の技は危険だからスパーリングはない。
まあ、色々出てます。
炎上されたら嫌なので、以下はあくまで私個人の意見という事でご了承下さい。

 

そもそも比較対象が間違ってます。
競技総合格闘技は言ってみれば「具象」。
競技総合格闘技は審判を置いて時間、場所、条件やルールを公正に定め、しかも大勢の人とスポンサーを集め興行します。リングの上で勝った方には勝利した証明(賞状やトロフィー、賞金)を受け取って公衆の面前で勝利宣言をします。つまり見せ物です。確かに総合格闘技で人を殺すことも可能ですが、基本相手を制圧することが目的で殺すことではありません。ローマ時代じゃないんですから(笑) もちろんリング以外での格闘は基本的に全く考慮されていませんし評価もされません。下手すると警察のお世話になります。任意の試合のある日時と対戦相手に特化して、トレーニングをしてそこに至ったときに最高のパフォーマンスを発揮できるようにする、これが競技総合格闘技の本分です。だから例えば試合が終わって帰路について家の前で不意打ちを食らっても恥ではありません。普通に犯罪被害です(笑)

 

伝統古流武術は行ってみれば「抽象」。
自覚されている人があまりにも少ないので驚きますが、武術が戦における用兵技術として集中運用されていたのは今から遡ること400年前の戦国時代までです。江戸時代では武士と一部の町人の心身の修養を担う方法でした。幕末に至っては戦闘の主役は大小火器で刀はほとんど補助です。明治時代以後はほぼ「趣味」の世界です。つまり闘争の方法論として稽古されてはいますが、基本的には自己修養の要素が高い。ただし上記と違って基本的に相手を倒すことを念頭に置かれた技法ですから、キチンと稽古されている人であれば相手の命を奪うことも可能です。上記が「敵に勝つ」目的と言うならこちらは「己に克つ」でしょうか。ちなみに武術を嗜む人はリングじゃないところでの不測の事態に対処すべく常に考えている人が多い。上記と異なり「24時間365日常に可能な限りパフォーマンスを上げておく」のが武術の本分です。こちらはいつでこでも不意に襲われても最低限度の対応ができなければ恥です。

 

航空機で言えば最大速度を速くするか、巡航速度を速くするか、そんな感じでしょうか。あるいは車だったらF1とジープを比較する、そんな感じかも知れませんが。
リングの上ではもしかすると競技総合格闘技家の方が強いかも知れませんが、例えば日常の中で不測の事態があったときは武術家の方が有効であることが求められます。

 

そんなリクツを並べても意味が無いとか言うのはナシです(笑) 「あなた」が要らないと思っていても伝統古流武術は戦で使われなくなってから400年も続いていて、今なお修練している人は多いですし、海外にもかなり大勢います。もう一度言いますが世界の秩序や摂理は「あなた」の基準で動いてません。ちなみに何でも白黒ハッキリさせようとする人の知性は一般に低いと言われているそうです。ゆめゆめ心に命じられよ(笑)

とは言っても上記の二つははっきり二つに分断されているものではありません。あくまで相対的なものです。総合格闘技に近いスタイルの武道もありますし、古流を多く採り入れた総合格闘技もあるようです。

 

スパーリングについてはほぼ型稽古ばかりやっている流派も確かにあります。私もそういうものには微妙に同意しかねますが、割と多くの古流では技の組み(手)稽古をしていると思います。当流に関して言えば変化に次ぐ変化で、見た目はもはや基礎の型にもなっていないこともあり、これはスパーリング、日本語で言えば乱取りでしょうか、に近いものがあります。古流を批判されている方にどれほど造詣が深い人がいらっしゃるのか分かりかねますが、納得するようなコメントを書かれていた方が少なかったので。

 

実は私も伝統古流武術をかじってはいますが、20代前半の頃は国内外でスパーリングや異種格闘技の試合のようなものは少し経験があります。どんな結果だったかは教えません(笑)

 

ともあれ日本の環境がなかなか理想だと思うのは、海外に較べてその二つを好きなだけ良いとこ取りができる稽古の機会を持てるという事ではないでしょうか。

 

令和参年神無月七日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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迫り来るもの是あり

本日は色々あって今後の武芸について色々考えさせられるものがあった。
私の入門時、私は16歳で先生は42歳、現在私は間もなく52歳で先生は78歳。宗家に至っては今年90歳になる。そして師事してから師弟関係は35年に及ぶ。

 

35年と言いながら、体感ではそんなに経ったのかとなかなか実感できない。
いつも深い敬意と感謝の念を持っていたものの、この関係は永遠には続かない。順当で行くと間違いなく師はこの世から去る。そしてそれはもうそう遠くない未来である。
今日はそれを痛切に感じさせられた。いや、一種の恐怖すら覚えた。
情けない話しである。

 

これからの稽古は毎回、覚悟を持って臨むべきだと思わずにはいられなかった。
諸芸で師事している方は、師事できている事への感謝のみならずその道と先生に就いていく覚悟を持って臨んで頂きたく。

 

令和参年神無月二日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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我が身を忍ぶ

修行とは
我が身を忍び
身を隠し
世にはさざ波
さへも及ばず

 

これは以前、即席で綴った武道歌です。武道歌になっているかどうか分かりませんが。
武術が戦における戦術の要だったのは遥か400年も昔の話です。250年以上も続いた江戸時代の泰平では主に個人の修練の方法論に過ぎなくなりました。更に幕末維新では戦争の主役は火器で、もはや武術は脇役とも言えぬ地位になってしまいました。そして明治時代から現代に至るまでは個人の修練の方法論どころの話ではなく、趣味にカテゴライズされている始末です。武道は人生そのものだと言う人もいますが、残念なことに江戸時代よりも遥かに必要性がありません。武道がこの世から完全に無くなっても社会は健全に機能します。オムライスにかけるケチャップがないという喪失感にもならないかもしれません。


現代の武芸者たちはそのような中で敢えて武芸を生き方の手本として選んでいます。私はその点に着目します。それがこの武道歌です。


スポーツ格闘技、或いは現代武道であればおおっぴらにネット上やメディアで宣伝してもよいと考えます。というかそれらは宣伝してナンボものもですからすべきです。
しかし自分自身の修行の方法として捉えているのであれば、それは基本、可能な限り人に見せるべきものではありません。古流にそのような考えが多いように見受けますが、必ずしも古流である必要はなく(というか武道である必要もありませんが)、聖書に書かれているように祈りは人に見られないようにする、そんな感じです。現実には何かの縁で仲間や弟子、或いは師が見つかることはあるかも知れませんが、派手に喧伝してまで仲間募集というのはやはり修行ではありません。全く口を閉ざせとは言いませんが、さじ加減の問題というのでしょうか。これが上の句の大意です。


このように色々と決まり事やしがらみの多い世の中です、SNSでふと呟いたことも無数の人が反応して所謂炎上することも珍しくありません。武芸の本分は身を守るということですが、本来は人を殺す術を以てして武芸です。隠忍自重という安全装置を幾重にも重ねてそのようなこともあり得るということです。いわんや平時に於いて修行をするに当たっては、あらゆる意味に於いて社会に決して悪影響を与えてはいけません。社会に迷惑をかける、負担をかけるというのは以ての外です。修行のために周囲にちょっとぐらいの迷惑をかけてもよい、我を通すためなら周囲が理解してくれなくとも良いというのはすでにそこで終わりです。既出のオムライスの話しではありませんが、ケチャップを残すためにオムライスを廃棄する、ケチャップを残すためならオムライスは腐らせても良い、という本末転倒な事があってはならないという事です。ケチャップはオムライスを美味しくするための素材であるように、武芸も社会をより良くするために貢献しなくてはなりません。武芸が忍んだり身を隠す必要がないのはそういう場合です。弟子を取る、と言う行為はもしかしたらそれに該当するのかも知れませんが。これが下の句の大意です。


昨今コロナ禍で国家や個人でも色々なエゴが顕れてきました。特にワクチン接種に於いてワクチン接種派、反ワクチン派が火花を散らしています。どちらも我が身かわいさに起こした行動に見えます。もっともネットの情報をどこまで深く読んで決めたのか疑問ですが。


私の基準は簡潔です。「他人に迷惑をかけない選択」です。万事、自分を勘定に入れてものを考えるから浅ましくなります。(私もたまに浅ましくなりますが)常に利他をまず考えればそんなに大過のない判断ができます。つまり「無心」になることです。まず自分のことを考えると大抵はロクなことになりません。武芸で言えば「死ぬことと見つけたり」でしょうか。あれは死ぬ気で戦えという意味ではなく、命さえ擲ち無心になれば活路が見いだせるという意味だそうです。生きることにしがみつくと目が曇って活路が見いだせないという事です。活路は我が身すら空虚にして無心になったところに見出せるというものです。その上で恥を晒さない生き方を心掛けます。恥を掻かない生き方というのは質問に対して間違った答えをすることではありません。間違った判断や行動をする事そのものではありません。


ワクチンで言えば思うところあって未接種のまま感染して病院に搬送されたとき、「ワクチンは未接種です」と答え、その上で医療従事者たちを余計に働かせてしまうことは恥だと思います。多分医療従事者たちは想うところがあっても間違いなくその患者を救うための努力を惜しみません。義務かも知れませんがそいれがいわゆる無心というものです。私の場合ですがそんな恥さらしの状態になったら本当に自殺でもしかねません。そしてそういう恥さらしになりたくないので他人に迷惑をかけずに済むついでにワクチン接種をしたという体です。嗤ってください。

この恥を晒してでも我を通したいと思う方もいるでしょうが、私は武人としてもっと優雅に高貴でありたい、それが私の武芸における美学だと心得ています。

 

令和参年長月晦日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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稽古の質

昨日、たまたまネットで戸田恵梨香さんのインタビュー記事を読みました。昨日最終回を迎えたドラマ「ハコヅメ」でダブル主演をしていましたが、実像もドラマの主人公に重なるものがありそうです。それで昨年結婚して夫が松坂桃李ですからやっぱりすごい女優なんでしょう(笑)
彼女が影響を受けた俳優の一人、樹木希林さんが生前彼女に言ったアドバイスが目に止まりました。
曰く「ちょっとした仕草に俳優の日常のクセが現れてしまうから、俳優は、日々の暮らしを丁寧に送ることも大切」。
これ、なかなか奥が深い言葉です。

 

この言葉は別に俳優だけに留まりません。伝統芸能を継承している全ての人に当てはまるのではないでしょうか。
私の場合は武芸や禅ですが、例えば武芸では道場の中で汗水を流して限界まで激しい稽古をする人もいます。それはそれで重要ですが、優れた武芸者は若い頃やっていた稽古だけを何の疑いもなくずっと継続することはある意味怠慢とも感じます。稽古の量を増やしてスキルを上げるのは人生全部で同じ効果をもたらせません。そしてそれは思考能力、創意工夫を減退させます。体こそ鍛えられますが、私は逆に神髄から遠ざかる気がします。


歳を経てレベルを上げるとは質を変えること他なりません。故に同じ事をずっとやっていることは徐々にその意義を失うと言って良いと思います。初心者の頃にやっていた稽古内容で同じ効果を得ようと思うなら、上級者はもっともっと稽古が必要になり、やがてどんなに稽古してもかなり伸びなくなってくる。(少しでも伸びるじゃないか!という人は効率を無視してます、そういう人は戦闘で真っ先に死にます)やはり稽古の質そのものを変えねばなりません。

 

私も10代半ばから武門に入ってから30年以上になりますが、稽古、或いは修行というものの概念を年季を経るごとに別の視点で見るようになりました。それは取りも直さず道場の中からもっと外にも修行の場を求めること他なりません。それは野や山に行けという事ではなく、日常生活の中での活動に武芸に役立つ部分にフォーカスして、稽古の一環として取り込む。そのようなものだと私は思っています。ことさらこんな事を現在書かねばならないのは、江戸時代ではその当時の生活様式が武芸の所作や稽古に合致していたから、ことさら書く必要もなかったが、現代では似ても似つかない生活様式のためにそういうことを意識してする事が必要、と言えます。

 

例えば歩くこと。江戸東京博物館にはとある武士の日常が記された日記がありました。それを読むと彼は仕事の時などは外回りをすれば20キロ、休みの日でも「ちょっとそこまで出掛ける」だけで10キロも歩いたりしています。足腰の強さだけで既に我々などを遥かに凌駕してます。記録メディアも乏しい時代でしたから多くの人は見聞きしたものは無意識に全身耳にして記憶できたと思います。視聴覚力も優れていたでしょうし、自然の知識も体験からそれなりに詳しかったと思います。たとえば春夏秋冬の変り目も自然を見てすぐ分かったでしょうし、草木の知識なども一般市民でもある程度知っていたと思います。刃物なども日常的に使っていましたから扱いには慣れていましたし、手入れの仕方も当たり前の事でした。

 

例えばそういう時代の人が書いた伝書を、現代の我々がそのままやってもたぶん、伝書の著者が当たり前の者として見做していた基礎となるべきものが大きく欠落していて、伝書を書いた人の意図を完全に再現できないと私は考えます。さりとてその間隙を埋め合わせるために稽古をするのは時間の無駄です。(ま、働かずに済むほどリッチな人は別ですが)なので日々日常で行っている動きを応用するのが一番近道ではないかと思うのです。その方がいいもう一つの理由は、もしそれができたら無意識にその習慣が身に付くためです。試合のある武道や格闘技はそういうものはあまり関係ないかも知れませんが、常時戦闘態勢を敷いている(つもりでいる)武芸者にとっては意図を潜在意識下に抑える、あるいは意図を隠蔽できることはかなり大きい。

 

限られた時間と場所、或いは条件で、限りなく高い質の鍛錬をする為には須く数字や総量に因らない、独自の創意工夫が必要である、と申し上げます。

 

令和参年長月十六日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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万物流転ということ

20年ぐらい前のことだったでしょうか、ある命題に直面しました。
一つは「伝統の形式は固持すべし、歴代の継承者たちが形成してきたものを『おまえら如き若輩』が易々と手を加えていいものではない」という考え。
もう一つは「世は万物流転だから次々に変化して、同じものはない。ひとつのものを固持していくのは愚かである」という考え。


前者を固く信じていた合気道の方と知り合ったのですが、確かに一理あります。(ま、合気道自体、古武道に分類されない、新しい武術ですが)彼曰く、伝統の型を一心に修練して我が物とすれば、どんな状況でもそれは無意識に使えるものだと言うことでした。


もう一つの考え方があります。すべては変化している故、型も技も理合いまでも変化して然り、ということ。どちらかというと当流は後者かも知れません。当流の外国人門下生たちにも「Henka」という単語は浸透しています。

 

実際のところ不変であることは難しく、必ず変化します。唯一最大の問題はそれを正しく変化できるか否かです。正しいときに正しい変化を悟る、これではないかといつも思います。

 

絶対に伝統を守るというなら、稽古場まで着物を着て徒歩で来るべきです。照明はロウソクにすべきです。喉が渇いたら水道水などもっての他。井戸から汲み上げて飲むべきです。そもそもそれならITの恩恵さえ受けるべきではありません。

 

・・・なんて書いたら言いすぎですが、私たちは生活上、変化を止めることは不可能です。変化を少しばかり制御しているに過ぎません。伝統固守派でも稽古場には車や公共交通機関で通っているはずです。それが現実というものです。

 

故に私は変化をどう捉えるかという考えが重要ではないかと思っています。その中で変えるべきもの、変えてもいいもの、変えてはならぬものを知ればよいと考えます。人は変化を恐れる生き物だと言われますが特に日本人のように世界最古の国家を形成している民族にとっては特にそうでしょう。ただやはり私は黒船や敗戦など、外国からの刺激で変化を強制されるような情けない民族であってはならないと思うのです。

 

令和参年長月九日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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