不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

伝統古流武術と競技総合格闘技

最近ツイッターを眺めていて割と盛んなトピックがあります。ズバリ
「スパーリング」(笑)
スパーリングがない格闘はあり得ない、弱い、使えない。
伝統古流の技は危険だからスパーリングはない。
まあ、色々出てます。
炎上されたら嫌なので、以下はあくまで私個人の意見という事でご了承下さい。

 

そもそも比較対象が間違ってます。
競技総合格闘技は言ってみれば「具象」。
競技総合格闘技は審判を置いて時間、場所、条件やルールを公正に定め、しかも大勢の人とスポンサーを集め興行します。リングの上で勝った方には勝利した証明(賞状やトロフィー、賞金)を受け取って公衆の面前で勝利宣言をします。つまり見せ物です。確かに総合格闘技で人を殺すことも可能ですが、基本相手を制圧することが目的で殺すことではありません。ローマ時代じゃないんですから(笑) もちろんリング以外での格闘は基本的に全く考慮されていませんし評価もされません。下手すると警察のお世話になります。任意の試合のある日時と対戦相手に特化して、トレーニングをしてそこに至ったときに最高のパフォーマンスを発揮できるようにする、これが競技総合格闘技の本分です。だから例えば試合が終わって帰路について家の前で不意打ちを食らっても恥ではありません。普通に犯罪被害です(笑)

 

伝統古流武術は行ってみれば「抽象」。
自覚されている人があまりにも少ないので驚きますが、武術が戦における用兵技術として集中運用されていたのは今から遡ること400年前の戦国時代までです。江戸時代では武士と一部の町人の心身の修養を担う方法でした。幕末に至っては戦闘の主役は大小火器で刀はほとんど補助です。明治時代以後はほぼ「趣味」の世界です。つまり闘争の方法論として稽古されてはいますが、基本的には自己修養の要素が高い。ただし上記と違って基本的に相手を倒すことを念頭に置かれた技法ですから、キチンと稽古されている人であれば相手の命を奪うことも可能です。上記が「敵に勝つ」目的と言うならこちらは「己に克つ」でしょうか。ちなみに武術を嗜む人はリングじゃないところでの不測の事態に対処すべく常に考えている人が多い。上記と異なり「24時間365日常に可能な限りパフォーマンスを上げておく」のが武術の本分です。こちらはいつでこでも不意に襲われても最低限度の対応ができなければ恥です。

 

航空機で言えば最大速度を速くするか、巡航速度を速くするか、そんな感じでしょうか。あるいは車だったらF1とジープを比較する、そんな感じかも知れませんが。
リングの上ではもしかすると競技総合格闘技家の方が強いかも知れませんが、例えば日常の中で不測の事態があったときは武術家の方が有効であることが求められます。

 

そんなリクツを並べても意味が無いとか言うのはナシです(笑) 「あなた」が要らないと思っていても伝統古流武術は戦で使われなくなってから400年も続いていて、今なお修練している人は多いですし、海外にもかなり大勢います。もう一度言いますが世界の秩序や摂理は「あなた」の基準で動いてません。ちなみに何でも白黒ハッキリさせようとする人の知性は一般に低いと言われているそうです。ゆめゆめ心に命じられよ(笑)

とは言っても上記の二つははっきり二つに分断されているものではありません。あくまで相対的なものです。総合格闘技に近いスタイルの武道もありますし、古流を多く採り入れた総合格闘技もあるようです。

 

スパーリングについてはほぼ型稽古ばかりやっている流派も確かにあります。私もそういうものには微妙に同意しかねますが、割と多くの古流では技の組み(手)稽古をしていると思います。当流に関して言えば変化に次ぐ変化で、見た目はもはや基礎の型にもなっていないこともあり、これはスパーリング、日本語で言えば乱取りでしょうか、に近いものがあります。古流を批判されている方にどれほど造詣が深い人がいらっしゃるのか分かりかねますが、納得するようなコメントを書かれていた方が少なかったので。

 

実は私も伝統古流武術をかじってはいますが、20代前半の頃は国内外でスパーリングや異種格闘技の試合のようなものは少し経験があります。どんな結果だったかは教えません(笑)

 

ともあれ日本の環境がなかなか理想だと思うのは、海外に較べてその二つを好きなだけ良いとこ取りができる稽古の機会を持てるという事ではないでしょうか。

 

令和参年神無月七日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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