不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

私たちの任務

本日は76年目の終戦記念日です。
今年は今までにない、夏としては信じがたい寒さの8月15日です。
そして世界中が異常事態にあり、いつ終わるとも先が見えぬ状態です。
その中で日本人に在っては歴代天皇のお言葉は暗闇に在って国民に灯りを灯すような、そんな気がします。
特に昭和天皇は神代を除く歴代天皇としては最も長く在位され、かつ日本史上もっとも困難な局面を乗り切り、更に同じく日本史上類を見ない大発展に導いた天皇として、戦後に語られた言葉の数々には大変重みがあります。

ここ最近は昭和天皇終戦時にラジオにて国民に訴えた「大東亜戦争終結詔書」所謂玉音放送終戦記念日に読むようにしています。日本史上最大の国家危急存亡の日に、昭和天皇は何を思って語られたのか、その言ったんでも知ることができればと言う想いからです。少々長いですが、現代語訳にした全文を掲載します。

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私は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。
私は、帝国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。

そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、すべての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。
さきにアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、まさに日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとより私の本意ではない。
しかしながら、交戦状態もすでに4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。
それどころか、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。
それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。
そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)にわびることができようか。
これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。

私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。
日本国民であって戦場で没し、職責のために亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。
さらに、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。
考えてみれば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。
あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。
しかし、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う。

私は、ここにこうして、この国のかたちを維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごすことができる。
感情の高ぶりから節度なく争いごとを繰り返したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、そのために人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒めるところである。 
まさに国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。
あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動してほしい。
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本来日本の敗戦です。同盟国に責任はないはずですが、国民のみならず同盟国にまで謝罪しています。私は歴史的にそのようなことをした君主をあまり知りません。また、原子爆弾は一国だけではなく、人類の文明すら破壊してしまうと危惧されています。この寛く深い想いを知ったとき、我が国の皇室の気高さを誇らずにはいられません。

最後の章は戦後生き延びた国民に対してではなく、以後生まれてくるであろう全国民に対して宛てられたメッセージだと思います。何度でも読み直してください。日本人なれば、日本人であるためには、日本人として、この想いを受けて国民は世界にそのようにあらねばならないといつも自戒しています。国民1人ひとりが特に昭和天皇以降今上陛下に至るまでの想いを察して、日々を誠実に生きるべきだと思っています。ふり返ればまだまだ恥ずべき事が多いのですが、世界中の人の心に響く日本人としていかにあるべきか、これはいつも考えているところです。

令和参年終戦記念日

武神館 不動庵道場

不動庵 碧洲齋

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大和の民であること

毎年、広島と長崎に原子爆弾が落とされた日や終戦記念日になると、日本社会は少なからずかつての戦争を思い返す人が多くなります。とはいえ、当時将兵だった人の年齢を考慮すると、当時20歳の軍人だったら、現在は96歳、ほとんどの方が亡くなっています。あと20年もしたら太平洋戦争の従軍経験者はいなくなるでしょう。小学校低学年ぐらいだったか、良く覚えていませんが、新聞の片隅に「最後の日清戦争従軍者が亡くなる」という記事を読んだ記憶があります。中学校だったか高校の時は日露戦争の従軍経験者が亡くなったと思います。そのように太平洋戦争の従軍経験者もあと何年もせずに全員亡くなってしまいます。私の年代だとにわかには信じがたいことではありますが。

この時期になると従軍経験者ではない戦争体験者たちが戦争の悲惨さを訴えます。戦争の悲惨さを訴えているのは敗戦国の軍人ではない人たち、主にほとんどが子供だった人たちです。この辺りが重要です。例えばアメリカで反戦運動をしている人たちは朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争などなど、戦争に参加したリアル世代、というかアメリカは常にどこかで戦争をしているので周囲に戦争従軍者が大勢います。そういう人たちの反戦活動の趣旨と日本のそれとは微妙に違うなぁ、と感じます。

一方で戦後生まれの人たち、主に保守系の人の中にはその戦争の正当性や連合国こそ悪だと言って憚らない人もいます。もちろんそれはアメリカにもいます。原爆を落としたから日本本土侵攻作戦で失われたかも知れない何十万人の兵士らの命を救ったとかいうのはよく聞きます。真珠湾を忘れるな、等も有名ですね。最近の調査ではさすがに若い世代でそれを主張する人は少ないですが、私ぐらいの世代ではマジメに主張している人も多いので笑えます、いえ笑えませんが。色々な主義主張が繰り返されますが、どの主張にもある程度の妥当性はあるものの、建設的ではないものが多い気がします。スターウォーズのように悪の銀河帝国と正義の共和国同盟がぶつかり合うという図式が頭にあるんでしょうか。あれはアメリカ人が生み出した、単細胞的なお話しです。子供が観る特撮ヒーロー番組と同じです。

戦艦や戦闘機や戦車を設計、製造している国は大きく幅を振っていても「かなりの理性国家」です。理性や科学的思考能力がない国では工業や大規模な経済活動は興せません、当たり前すぎる話ですが。政治理念や社会理念が違うだけです。自分を悪の存在と認識して戦いを挑むバカはいませんが、戦争はそういうものだと誤解しているバカは大勢います。自身を悪と認識して戦っているのはせいぜいお子様が観る特撮ヒーローものの悪の組織だけです。現実には戦争は「正義」と「正義」のぶつかり合いです。勝った方が正義を名乗ることができます。実際には負けた方にも正義はありますが。故に戦争は善悪では裁けません。

日本は古来より「和」を号してきました。それ以前は「倭」と中国から呼ばれていました。一節には中国からの使者に向かって私という意味で「わ」と言ったのを間違えたのかも知れないとのこと。なかなか意味深です。以後日本人は善悪を裁くよりも調和を取る、和を貴ぶというものの考え方を最上としてきました。正しいとか悪いとか以上に全体の調和を崩さないことにもっとも心を砕いてきたと言えます。それが良いことなのか悪いことなのか分かりませんが、日本は神話の時代から一つの王族によって2600年以上も滅びもせずに単一国家として存続してきたことを考えると、割と悪いことではないと、私は思います。そしてその民族をして「ヤマト」と称して「大和」の文字を当てはめたことはなかなか優雅で意義深いと考えています。私たち日本人は「大和」を号しているという事実とその意義をよくよく深く考えていかねばなりません。

令和参年葉月七日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

 

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武道とは

・・・という大上段に構えた問いはあまり好きではありません(笑) 私は武門の末席を少し汚している程度の未熟者なので、難しい事は分かりません。ただ歴史的事実からほんの少しばかり再確認していきたいところです。
 
「武道」という単語は実は新しくて明治に入ってから造語されたようです。それ以前は武術とか武芸とか、そんな感じでした。理由は簡単で、明治時代になって各藩に依存していた武士による軍事力は解体され、国家としての市民による制式軍事組織は「軍隊」として統合、再編成され、手本が欧米の近代的な軍隊に定められたからです。
 
そもそも武術が軍事的に集中運用されていた戦国時代は明治の世から数えても250年も昔のこと、江戸末期の人であればヒイヒイおじいさんですら戦を知らない状況でした。つまり江戸時代、初期を除いて全員が「軍隊としての実戦経験者は皆無」でした。時代劇でもせいぜい毎週悪人が捕縛される程度で、諸外国からの侵略はもちろんのこと、戦国時代のような世の乱れもなく、幕府に不満を持つ外様の藩ですら忍従して平和を保っていたという、日本史でも希有な時代でした。幕末になって新政府軍と幕府軍が対峙しましたが、それはもう戦国時代の戦い方ではなくて大小の火器を集中投入し、刀剣を持った兵士が斬り込むという、前近代的な戦術になってしまっています。新撰組のような剣術のプロ集団ですらライフル銃を持った農民兵の前には散々でした。
 
つまり事実上、武芸というものは江戸時代にはすでに本来の目的であった軍事における用法は完全に廃れ、武士の嗜みになってしまったこと。それ故に個人技としての武技がかなり研鑽されて、多くの流派が作られました。そこにきて幕末を経て明治時代になるとその事実を追認するかのように公式に使わないという流れになったと言えます。
 
当時の武芸者たちは相当悩み、苦しんだようです。いかにして継承してきた武芸の流儀を守るべきか。そこで、書道や茶道、華道に倣って「武道」と名をあらためましたが、明治時代からあとは茶道や華道と斉しく、完全に個人の趣味になりました。もちろん軍隊や警察では一部継承されましたが、基本的には市井の道場で稽古されて、お金と時間と興味がある人であれば誰でもできる世の中になったと言うことです。しかし逆に言えばこれも良いことで、誰もが憧れていた、当時の人口比で6パーセント程度しかいなかったサムライになる事ができました。実際にその哲学は良くも悪くも社会の各所で用いられ、モラル向上の一助にはなったと思います。また、それは軍隊にも利用されました。それで軍隊の生活規範は禅宗ですから戦前の軍隊にて勤務した将兵の皆様には本当にお気の毒でした。
 
幕末維新や先の大戦の大敗を経ても今なお武道は結構隆盛で、今では海外にまで広まっていて外国人武芸者は大変多くなっています。日本の武道というのはそれだけ魅力的なのだと想うと嬉しくなります。
 
私の師匠の受け売りですが、学んでいる武道を社会にて活かせないようでは意味が無い。ま、体術や剣術を稽古していて、男として満足感が得られるというだけでもいいと思うのですが、師匠としてはそれではダメなのだそうです。つまり、維新後、戦争で使われるでもない武芸がこの世にあって廃れもせずにそれなりに繁栄しているのは、技術的側面ではなく、その精神的哲学的側面に重きが置かれ着目されたゆえに生き長らえてきた、ということです。
 
ミもフタもなくなってしまいますが、これから先、戦争があっても各流儀の武技が戦争で用いられることはまずないでしょう。個人的なやむを得ない闘争や護身に用いられることはあっても、それは恐らくかなりのレアケースです。故に武道はそう言うことではなく別の面で社会に貢献する、社会に応用するべきだ、ということのようです。正しいか間違っているか分かりませんが、戦国時代から400年以上、本来の軍事目的に用いられなくなった武道が今に至るまで連綿と続いている理由はそんなところにあるのではないかと考えます。そしてそれがうまく機能しているからこそ、武士階級がなくなってから150年経った今でもサムライが尊敬されていると考えます。
故にどんなに華麗で優れた技を持っていても市井ではアルバイトなどでやっと糊口を凌ぐ、などというのはあまり誉められないということでしょうか。もちろん武芸者であれば選りすぐれた技量を持つべく日々研鑽せねばなりませんが、平時の武芸者たるや、更にその先、その武芸を平時に応用できねばならないという、大変難しい課題があります。いや、実際これに関しては私も人のことを言えた義理ではありません(笑)
 
ずいぶん昔ですが、宗家より槍術を指南して頂いていた折、「相手の体を突いてどうなる、心を突けないと意味が無いぞ。」というようなことを言われてハッとなったことがあります。現代で槍を以て人を突き刺すなど、よく考えたら蛮行の極み(笑) しかし現実にそれを稽古する者はその行為から何を期待して、或いは求めて稽古を続けるべきなのか、よくよく考えねばならないと考えたものでした。
 
そんなことを思い浮かべながら、江戸時代から現代に至るまで戦争には使われなかった武芸の在り方についていかにあるべきか、いつもよく考えます。

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令和参年文月七夕
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

諸葛孔明の手紙 その2

私は諸葛孔明は意外に野心家であったと思います。理由はあれだけ才能がありながら、魏国ではなく、どこの馬の骨だか分からない劉備などと言う50に近いあまり有名ではないおじさんに味方したからです。三顧の礼の時、劉備は47歳、孔明は27歳。私も47歳の時に劉備の気持ちをなぞってみましたが、う~ん、27歳の若造を三度も訪ねて頭を下げることをするかどうか・・・ま、それだけ孔明が尋常ならざる才能を持っていたという事なのでしょうけど。孔明もどんなに才能があっても大企業だと埋もれてしまいます。限りなくフリーハンドで自分の才能を遺憾なく発揮するには中小企業、ベンチャー企業に限ると思ったハズです(笑) もちろん、主君と反りが合う合わないというのもあるでしょうし、三度も家を訪れてきてくれた誠意に心打たれたかも知れませんが。

 

昨日に続き、今日はもう一つの孔明の手紙を紹介します。こちらは自分の子供を誡めるための文だったようです。ちなみに奥さんはもの凄い不美人でしたがよく夫に尽くした賢夫人とされています。

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(書き下し文)

それ君子の行ひは、静以て身を修め、倹以て徳を養ふ。澹泊にあらざれば以て志を明かにすることなく、寧静にあらざれば以て遠きを致すことなし。それ学は須く静なるべく、才は須く学ぶべし。学ぶにあらざれば以て才を広むるなく、志あるにあらざれば以て学を成すなし。滔慢なればすなはち精を励ますこと能はず、険躁なればすなはち性を治むること能はず。年は時と与に馳せ、意は日と与に去り、遂に枯落を成し、多く世に接せず。窮廬を悲守するも、将た復た何ぞ及ばん。

 

(現代語訳)

そもそも君子の行いというものは、心を清くして身を修め、身を引き締めて徳義を養うものである。あっさりと無欲でなければ、志を明らかにすることはないし、安らかで静でなければ、思慮を遠くまで届かせることはできない。そもそも学問は必ず静ではなければならないし、才能は必ず学ばなければならない。学ばなかったならば才能を発揮できないし、志がなかったならば学問を完成させられない。怠りなまけたならば精神を励まし努めることはできないし、心の平静が失われたならば性情を治め整えることもできない。年齢は年々刻々と過ぎ去り、意志も日々弱まって行き、遂には体が衰えてしまい、多く世の中と関わりを持たなくなってしまう。そうなってから過去を嘆き悲しんで貧乏暮らしを守ってみたところで、あるいはまたどうして及びがつこうか。

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高い志を持つ、常に学ぶ、自律を心掛ける、そんな所でしょうか。割とありきたりのことを言っていますが、味わい深いものがあります。よく考えると私も息子に似たようなことを言ってきた気がします(笑) ま、うちは夫婦揃ってそれぞれ何か学んだり取り組むので子供は自然真似るのでしょう。志については私が常日頃、古今東西の賢人の話などをしたり、禅仏教を通じて神仏を尊ぶように言い聞かせたりしてました。親がしている祈りの姿を見せることは子供には有意義だと思っています。

 

実は孔明の手紙はもう一つありますが、これは酒席でのマナーについて他愛のないごく短い注意なので省略します。以上、前回と今回の甥御と息子に宛てた手紙から、諸葛孔明の人柄を偲んでいただけたらと思います。

 

令和参年水無月二十九日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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諸葛孔明の手紙

私は高校1年生ぐらいの時からずっと諸葛亮を尊敬して止まないのですが、諸葛亮には妹がいて、孔明三顧の礼を受け家を立つ前に人物鑑定の大家で地元の名士でもあった龐徳公に嫁いでいました。そしてその妹が産んだ子は龐渙といい、晋王朝では牂柯太守にまでなった諸葛亮の甥御です。その龐渙に諸葛亮が送ったとされる手紙が今に残されています。
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(書き下し文)
それ志は当に高遠に存すべし。先賢を慕ひ、情欲を絶ち、疑滞を捨て、庶幾の志をして、掲然として存する所あり、惻念として感ずる所あらしめよ。屈伸を忍び、細砕を去り、咨問を広め、嫌吝を除かば、淹留ありと雖も、何ぞ美趣に損せん、何ぞ不済に患はされん。もし志強毅ならず、意慷慨せず、徒に碌碌として俗に滞り、黙々として情に束ねらるれば、永く凡庸に竄伏し、下流するに免れざらん。

(現代訳)
そもそも志は、高尚にして遠大でなければならない。昔の賢者を慕い、勝手な感情や欲望を絶ち、滞ったものを棄て、高遠である志をして、特に明らかに心の中に思う所があるようにさせ、ねんごろに心に思い浮かぶものがあるようにさせなさい。自分の意志を曲げたり伸ばしたりすることを忍び、己の感情の細かくくどいことを去り、疑問に対して問いたずねることを広くし、他人に対し疑って怨むことを除いたならば、仮に久しく留まることがあったとしても、どうして良い趣にへり下ることがあろうか。どうして成し遂げないことに患わされることがあろうか。もし意志が強固不屈でなく、感情も激しく高ぶらず、ただ何もしないで平々凡々と世俗の中に沈滞し、虚しい感情に拘束されてしまったならば、永久に普通の状態の中に逃れ隠れたまま、品行の悪い下位の状況から逃げ出せないであろう。
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現存している、諸葛亮が書いたとされる文はほぼ全てが事務的なことばかりでおよそ散文的な内容のものは乏しく、それが逆に諸葛亮の人柄を物語っているとも言えなくはありません。その中でこの渙に送った1通と息子に送った2通だけは私的なもののためか、異色を放っているように思います。

昨日、阿部寛主演のドラマ「ドラゴン桜」が終わったばかりですが、それに通じるものがあります(笑) それでふと紹介したくなりました。

 

令和参年水無月二十八日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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中国の歴史ドラマ「三国志 three kingdoms」で諸葛亮演じる陸毅さん、かなり再現度が高い(笑)

 

楊震四知

昨今、中国共産党政府の力はますます増大して、周辺諸国に軍事的圧力をかけまくり、ほとんどの国から煙たがられ、恐れられています。何とも困った国です。
現実には貿易を止められたら速攻干上がってしまう国ですが、面子を重んじる国ですからその辺り我が物顔で道を阻むものなどいるはずがないと思っているのでしょうか。

私は高校1年生ぐらいの時からずっと中国史が好きで、結構本を読んできました。高校時代は毎日ほぼ1冊程度読み、高校卒業時には購入した書籍がほぼ1000冊あり、今思うと親に深く感謝しきりです。
色々問題の多い中国ですが、それは日本人の心を掴んで離さない中国史、過去にはとても優秀な人材が数多くいました。

今日はその中でも後漢王朝初期に実在した政治家、楊震について。字は伯起。
楊震の父は前漢王朝と後漢王朝の間にあった新王朝の暴政による国内の乱れを避けつつ、学問に勤しんだようで、新王朝を倒してその前の漢王朝の正統を復活させた光武帝から政界への誘いも断っていました。なかなかに堅い人のようです。
そしてその息子、楊震も同じく孔子に例えられるほどの秀才で、あちこちから誘いが来たものの、全部断って両親や兄弟に孝行を尽くしたとあります。いやいや、50歳になるまで平凡な生き方を貫くなんてやはりただ者ではありません。太公望呂尚も文王に仕えたのもそのくらいの歳になってからだったそうです。

今でも脈々と受け継がれている「ワイロ文化」の中国、宮仕えになってからはそれはもうしょっちゅうワイロ攻勢に遭ったようです。しかしながら楊震はそれらを頑として受けず、身の危険を顧みずに清廉潔癖を貫いたそうです。ですが最後は故郷に追放され、現状に失望して71歳で毒を飲んで自裁したとのこと。幸い、その後に名誉を復活、子供たち一族も政界に復職しました。ここまで清廉潔癖な政治家は中国では珍しい。普通はギリギリのところで妥協してしまうようなものです。

有名なエピソードを一つ。「楊震四知」というものです。
あるとき、例によって楊震の家に夜中、客が訪ねてワイロとして金を差し出し、客は言いました。「お納めください、どうせ誰も見てませんから。」しかし楊震は不思議そうな顔をして言いました。「天知る、地知る、我知る、子知る。何をか知る無しと謂わんや」子とは「あなた」という意味です。さすがの小物客もぎゃふんとなったとか。

誰も見てないから悪いことをしてもどうせバレない、そう思う人ほど小物です。何時もどこでも誰か何かが見ている、そう思う人ほど割と大物です。
私もゆめゆめ忘れないようにしていますが、さてさて・・・(笑)

 

令和参年皐月十三日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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#武神館 #初見良昭 #古武道 #武道 #武術 #道場 #入門 #埼玉 #草加

庚申信仰

今日は稽古の帰路に稽古場のある柏公園入り口近くの神社に行ってきました。
今まで神社があったのは知っていましたが、行ったのは初めてです。
神社の名前は「諏訪神社」流山にある大きい方の末社ですかね。
神主はいましたが、有人の神社としては小さい方だと思います。ただ社杜が結構生い茂っていました。

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諏訪神社


神殿自体は鉄筋コンクリートで再建されていてあまり歴史は感じられませんでしたが、古い石碑が多くあり驚いた次第です。近くで見るとほとんどの石碑には「青面金剛」と彫られていました。ネットで調べてみるとこの「青面金剛」とはこんな感じです。以下Wikiより。
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青面金剛(しょうめんこんごう)は、日本仏教における信仰対象の1つ。青面金剛明王とも呼ばれる。夜叉神である。インド由来の仏教尊格ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊格である。庚申講の本尊として知られる。
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よく道端にあるあの庚申塔のことですね。この神社では庚申信仰が篤かったようです。恥ずかしながら今までそれ程詳しく庚申についてよく知らなかったのですが、なかなかおもしろい。これもまたWikiからで恐縮ですがこんな感じです。
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道教では、人間の体内には三尸という3種類の悪い虫が棲み、人の睡眠中にその人の悪事をすべて天帝に報告に行くという。 そのため、三尸が活動するとされる庚申の日(60日に一度)の夜は、眠ってはならないとされ、庚申の日の夜は人々が集まって、徹夜で過ごすという「庚申待」の風習があった。
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神社にあった庚申塔

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江戸時代に描かれた青面金剛


平安時代頃から貴族が始めた風習のようですが、江戸時代では庶民にも広まり、講という形で行われ、この庚申の日を3年(18回)続けると一つ庚申塔を建てたそうです。なのでこの諏訪神社にある「青面金剛」の石碑もそういう理由で建てられたと想像します。2ヶ月に1回ご近所様と夜通し付き合うのですか・・・以下これは大変(笑) こういう付き合いから色々な情報交換や縁組みなどができたのでしょうね。

・・・で、このWikiの説明を読んでちと疑問が湧きました。この人間の体内にいる三尸という3種類の悪い虫さん、何で悪いのかというと「人の睡眠中にその人の悪事をすべて天帝に報告に行く」だから(笑) え?それ虫さん悪くないじゃん(笑) 自分の行いを正すという発想ないの?(笑) この庚申信仰はメチャクチャ人間に都合の良い、ある意味神様に反旗を翻す隠蔽工作集会ってことですよね?神様に隠し事はダメですって(笑)

ここの神主さん、なかなか風流でよい。手水舎の飾りを見て思いました(笑)

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令和参年皐月八日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋