不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

それでも宇宙は存在を許す

この三連休はなかなか忙しい週末でした。 土曜日は稽古、日曜日は座禅会二つと墓参り、露国武友に個別稽古、月曜日は鎌倉観光。 怒濤のスケジュールでした。 特筆すべきは日月の二日間で3人の臨済宗老師のお話が聴けたという事。今まで初めての経験だな。一人は川口市芝の長徳寺住職、奥田大無老師、この方が次の建長寺管長になる方です。次は霊樹院の政栄宗禅老師、明治時代以後、建長寺でたった2人だけ印可が許されたうちの1人です。つまり現在の建長寺管長猊下の法を嗣いでいます。最後が鎌倉建長寺管長猊下である吉田正道老師、運がいいことこの上もなし。 しかしながら自分の能力のいかに低いことか。吉田管長のお話を聞いた後ぐらいになると、自覚できるほどに頭脳がフリーズしかかっているのを感じました。ちょっと怖かった。(苦笑)実際に禅をしていてそういう方々の話を続けて聞くという事は、やはりそれなりに定力が必要なのだなと思った次第。一応言われるまでもなく腹、丹田で聴いていたつもりでしたが、全然ダメですな。笑っちゃうぐらい修行が足りない。 3人の老師はそれぞれ素晴らしかったのですが、一番衝撃的に感じた2番目、つまり政栄宗禅老師の茶礼の時の話しを紹介したいと思います。FBのグループページに書いたものに多少加筆してあります。
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病気の自分がいます。その状態の自分は「病気をしていない自分」を思い描きます。その差に悩み苦しみます。 しかし現実にはそこに「病気をしていない自分」はいません。「病気をしている自分」だけが事実です。現実にないものと納得のいかない現実をぶつけ合い対立させてしまうところに苦しみがあります。 人生は隙間なくグラデーションのかかった悠久の流れのようであり、それ以外に自分自身はありようがない。その今ある事態、状態だけが事実です。 何かを抱え込んだ自分だけがいる状態は、異常とか正常とかではなく、それだけが事実なのです。 貧乏じゃなかった自分、もっと優しく支えてくれて理解の深い奥さんがいた自分、もっともっと努力して社会的に上り詰めていた自分、結婚せずにもっと好きなことをしていた自分などなど、「鱈・レバ・鴨」・・・もとい「たら、れば、かも」の自分をどっぷり妄想してしまいます。それはたぶん、今ここにある現実がイヤだから、今の自分に満足しないから、後悔などしていないと強がる自分を慰めているから、そういう理由ではないでしょうか。 哀しいことにそれは喩えて言えば映画のスクリーン上の空絵事に過ぎません。彼氏がいない美女が自分の目の前で偶然に悪漢に出くわして、その悪漢は自分よりも弱く、自分はカッコよくやっつけて、実は自分は彼女の好みのタイプだった、なんていうサマージャンボ宝くじ並の確率は、やはり基本映画の中だけと考えた方がよさそうです。(こういうのを中二病って言うんですかね) 自分の物差しを捨てる、ここから始まります。自分に都合のよい世界があったら、それはきっと、誰かには都合がよくないどころか、腹立たしい世界です。犬に都合がよかったら、猫に都合が悪いかも知れません。鼠が居心地よい世界だったら、サルに都合がよかったら、etc, etc。みんながみんな、自分の物差しで決着が付く世界だったらみんなが困るのです。だから自分の物差しを捨て去る。ありのまま、今のままだけが本当の自分の有り様。良いとか悪いとか、満足とか不満とかではなくて、それだけが事実なのです。その事実に対してどれだけ徹底できるか、そこが禅の奥義ではなかろうかと思います。
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禅定について。主体と客体があります。客体は本来今あるその事態、状態ですが、禅定が深まると主体がどんどん小さくなり、やがて自己を全て客体に任せきるようになります。 浄土宗も禅宗も言い方、方法が違うだけで求めているものは同じ。「南無阿弥陀仏」を唱え、自己を全て仏に任せきって擲つ、これは仏心が波打ってたまたま出来上がった自己がすっともとの仏心に還るのと同じ。 3年ほど前に建長寺管長吉田老師の元に女性が尋ねてきた。 女性はクリスチャンでとある教会で真摯に祈り続けていたところ、ある日いつもと違う感覚であることに気付き、神父にその旨を話したところ、その神父は自分では分からないので禅宗の老師を尋ねるようにアドバイスしたため、やってきた。 吉田老師は彼女に検証したかどうか確認するための公案と拶処を20-30問うてもきれいに答えたそうです。そして彼女はこれから自分はどうしたらよいのか尋ねたので、尼僧はどうかということになり、現在彼女は臨済宗の尼僧専門道場にて修行しているとのことです。(ただ修行のしすぎか、今、足を悪くして車いすを使っているとか)在家であろうとなかろうと、宗教を問わず、見照(悟りの境地)というものは確かに存在する。 色々な宗教があります。これはどこかで誰かが言っていたことだと思いますが、宗教とは道が違うだけで行き先は同じ。山に喩えればルートは違えども、同じ頂上を目指している、そんな感じでしょうか。私もそう思います。だいたい一つのことに懸命にやっている人には真理があります。諺に曰く「一芸は万芸に通ず」というのは私は結構本気で信じています。色々なものにあれやこれやとケチを付ける人はえてして自我の手に固く握られた、自我の物差し故に、たった一つの芸すらも貫けない人ではないかと思うのです。もっともそういう人からすれば私のやっている芸なども全くお遊びみたいなものだと思うのですが・・・。
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愛について 日本と北朝鮮は今、とても悪い関係であり、世界中より北朝鮮は悪く思われていますが、「日本が北朝鮮を嫌っていても、大宇宙は北朝鮮の存在を許している」という事実。そこに存在が許されているのが慈悲であり、基督教で言うところの愛なのかも知れない。「私」が嫌い、「誰彼」が嫌い、といっても大宇宙からは存在が許されている、宇宙全体から見れば、彼我の違いなどない。同じく見える。仏教の「法」(ダルマ)の意は存在と真理を意味している。許されている存在、法(ダルマ)も愛と通じるものがあるのかも知れない。 この下りはちょっと衝撃的でした。日曜日に聴いたときはそれほどでもありませんでしたが、月曜日に鎌倉に行くとき、北千住駅で階段を昇っているときにハッとなりました。腹にズシンと響いた気がしました。「自分が相手を認めなくても、宇宙は相手の存在を許している」これだ~っ!そんな感じでした。だから基督教で言う「許す」とは「許す/許さない」の意味の「許す」ではなく、「今、そこにいる事実を認めなさい」という意味の「許す」ではなかろうかと思った次第。我々人如きが殷々鬱々と苦しんだ後に絞り出す「許す」などではないと、確信しました。私も人ですからいい加減腹が立つ人はいます。意地が悪かったり、人の足を引っ張ったり、いい気分に水を差したりと毎回腹が立ったりしたのですが、最近はずっと、その在り方、有り様を拈提して、その状況にあり潰しあり尽そうと努力して、最近は割とたやすく透過できるようになってきた体でしたが、この言葉の重さに比べたら、自分の努力などまるで子供の遊びのようなもの。深いため息が出てしまいました。「許す/許さない」の「許す」ではない、「有/無」の「無」ではない、この大宇宙の在り方、有様を感じ取ることができました。何度も言ってしまいますが、この話は本当に衝撃的なくらい、印象に残りました。
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ライオンがシマウマを襲い、格闘になる。襲う側、襲われる側、しかし大宇宙から俯瞰すればどちらも同じ。 大宇宙の元々同じ、一つだったものが分節されて、ライオンとシマウマになる。他宗教は神によって分節されてしまったものに対する視点を持つような教義はあるが、分節される以前のものに対する回帰、視点を持っている宗教は仏教、禅しかない。この問いはかつて鈴木大拙によってなされた。神が「光あれ」という前の状態に戻る、こういう実践をしているのは禅しかない。「光あれ」という以前の状態は全てを含んでしかも何もないもの。それが分節を繰り返して、この今の大宇宙、森羅万象を織りなしている。 実際に、そういうことに気付いたローマカトリックはよく日本から臨済宗の僧侶をバチカンに呼んで、坐禅をさせている。 禅は今あるその状況をクリアに見せるための方法論であるため、他のいかなる宗教ともぶつかることはない。 西洋でよく、何かに行き詰まった人が禅や仏教に走る人が多いことを聞きます。 キリスト教に関しては素人ではありますが、聖書は英語のものも含めて何度も読みましたし、多くの金言は今でも行うだけの価値があると、真面目に実践しているものもあります。しかしやはりというか何と言うか、究極的には人生の難問に対しては答えが出にくいのかなと思ったりします。あくまで私の感想ですが。少し前までバチカンに毎年、臨済宗の雲水が派遣され、今でも時々招聘されています。基督教では禅は神と交信する?有効な手段として認められているそうです。 禅で言うところの「無」や「空」の捉え方、仏教で言うところの「色」の有り様などがまた一段と深くなった気がした週末でした。 平成二十五年神無月十六日 不動庵 碧洲齋