不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

坐る

私の禅の修行は2002年、32歳の時から始まり、今に至っています。
始めたきっかけは別段武芸とは関係はありません。
よく巷では剣禅一致という言葉もありますが実際はどうでしょうか、人それぞれだと思います。
江戸時代、武士が皆禅をしていたわけではありませんし、一方で武士も全員が剣術の達人ではありません。

国内外の武友の中には「坐っているぐらいならその時間を稽古に費やした方がまし」という人もいます。
結局のところ禅に打ち込むかどうかというのはそれに価値を見出さねば意味が無いと言うことです。

ただ惜しむらくは割に多くの方が「禅イコール坐禅」という感じでイメージして、結跏趺坐をして瞑想するのが禅だと思いがちです。禅学者の鈴木大拙だったか誰だったか、「禅のある生活とない生活とでは全く違う」というようなことを言っていたと思います。
日々の生活に於ける行動様式やものの考え方、心の持ち方が禅であり、いわゆる結跏趺坐で坐る坐禅はその中のひとつの修行方法にしか過ぎません。
武芸で言えば「ただずっと木剣を振っているだけなんてつまらない、そんなことをしている暇があったら○○していた方がマシ」というような感じでしょうか。禅はどうもステレオタイプで見られがちです。

禅に効用を求めるのはいかがなものかとは思いますが、そもそも効果や御利益がなかったら何百年も続いたりしません。皆に等しく効果があるとも思えませんが、それなりに有用だからこそ続いてきたのだと思います。私は無用なものが何世紀も継続するほど歴史は甘くないと思っています。つまりこの世に残っている伝統や思想、哲学はやはり世が必要と見做しているから存続しているのだと思います。

私の場合で言えば、禅の考え方は結構武芸に応用が利きいている気がします。発想の転換というのか。名のある武芸者が禅も修行していたのは分かる気がします。
また、禅は仏教という宗教からある程度切り離しても使える便利なものです。
実際、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の本拠地でも行われていることからも分かります。禅はもっとユニバーサルなものなのだろうと思います。

エラそうなことを言ってしまっていますが、私自身は今までずっと根詰めて坐禅をしていたわけではありません。根詰めて坐っていたのは本格的に禅に入れ込んだ2007年から数年間ぐらいでしょうか、その後は毎日1炷(30分)坐るかどうか(笑) 坐禅会では4炷ぐらいは坐りますが。よく言われますが坐禅は我慢大会ではないので長く坐ればいいというものではありません。心の整え方や在り方にコツがあります。それが面白くて坐禅をする人が多いように思います。

今年は8月に入ってからどういう訳か妙に坐りたくなり、朝と帰宅後と就寝前に1炷ずつ、最低でも3炷も坐るようになりました。多いと5炷ぐらい坐ることもあります。理由はよく分かりません。単なる気分です。

現代ではインターネットの普及であまりに膨大すぎる情報を求めていつも心が外に向いています。故に唯独り坐り、自分を内省する時間というのは一層希少なものだと思うのですが、いかがでしょうか。

 

令和五年葉月三十一日
不動庵 碧洲齋