不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

日本社会について

正直に言うと私は協調性や思い遣りというものに関して日本人の基準では足りていないようです。
会社や家にいて感じることです。

それについて色々考えることはあります。
ひとつは50を過ぎて相手のことを考えて行動できないのか、思い遣りが足りないのか。
他の人と協調して調和を図れないのか。
我ながらシュンとなってしまいそうなことでもありますが(笑)

私は36年以上も結構多くの海外の人と交流があり、20代の半分は海外に住んでいました。正確にはアメリカとオーストラリアです。
国内に於いても週に半分は外国人と接していました。
しかし彼らからは協調性や思い遣りがないとか言われたことは直接的にも間接的にもありません。物事をハッキリ言う彼らが、です。

多分私は日本では基準に達していないが、世界では基準を充たしているのかなと思うようにしてます。
細やかな気遣いや争いを避ける協調性というのはもちろん良いことですが、私的に日本に住んでいてあまりに窮屈に思えることしばしば。
何事もがんじがらめになっている感ありです。
いちいち条例化、規則化しているわけではなくとも不文律であったり、忖度して相手や周囲を慮ったりすることが極端に多く感じます。
もちろんそれは潤滑剤としてよく機能することもありますが、正直言うとそこまで必要なのかと疑問に思うこと多々あります。
つまり日本人は周囲のことをあまりに気にしすぎです。
それらは社会にとって良い方向に働くこともあるのは事実です。
恥の文化は間違いなく世界的に見て素晴らしい概念だと思います。
私が言いたいのはそれが過剰に重んじられたり、拡大解釈、曲解されすぎているということです。
昔はどうか分かりませんが、現代では果たしてそこまで他人の気配りに気付いたりありがたいと思うことがどれだけあるのか、私には微妙です。

人としては最低限の礼儀作法以上のものは嗜むべきですが、それが過大になると人との関係が繁雑になり、場合によっては卑屈に見えます(海外では)。simple is best という言葉がありますが、まさにそれです。
実際どこまでやれば十分かというのは人それぞれの社会環境なので正解はありませんが、よく言われる日本社会のコスパの悪さの一端にはなっていると思います。今少しものの考え方、人との交わり方を簡素化しても良いのではないかと思う今日この頃です。

令和四年長月六日
不動庵 碧洲齋

東京の空は狭い