不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

気を充たす

武芸をしている関係上、国内外の多くの他流の方と交流を持つことがあります。
その中でいつもふと思ったことをひとつ。今まで時折思っていたものの、過去のブログを検索しても出てこなかったので書いたことがなかったかと思います。


どなたのことかというと合気道開祖である植芝盛平先生についてです。
私は合気道はやったことがありませんので植芝先生のプロフィール詳細は存じ上げませんが、もちろん武芸を嗜む者としてある程度は知っています。


エピソードには事欠かない植芝先生ですが、私が着目したエピソードは以下の通りです。覚えている範囲なので少し違うかも知れません。


あるとき、植芝先生が割と広い武道館で大勢の人に囲まれて指南していた折、たまたま離れた放送室の中にいた一人二人の門弟(収録か何かする係か?)が何かちょっと言葉を交わし、少しだけ笑ったところ、植芝先生はすぐに察知して動きを止め、しばらくじっと放送室の中にいた者を睨み付けていたとのこと(放送室には窓があって稽古の様子が見えた模様)。周囲にいた他の門弟たちは真剣な眼差しで植芝先生の一挙手一投足を目を皿のようにして見取り稽古をしていたとはいえ何十人、もしかしたら百を超えていたかもしれない数の人間の中から、遠い、しかも隔離された部屋の中にいた人たちの気の緩みを即座に発見したということに感銘を受けたものです。このエピソードを読んだのは多分かれこれ10年以上前のことだったと記憶していますが、気になったのはここ数年です。
どうしてそのようなことができたのか考えました。


会場にいた門弟たち1人ひとりを観察していたのでしょうか?いえ、それは不可能です。私如き浅薄で若輩の勝手な推測ですが、植芝先生は恐らく、稽古時は自分の気をその場所に満たしていたのだと思います。そしてその中で気に触れる異物、異状を感じ取っていたのだと思います。もちろんそれは若い頃からの厳しい稽古の賜だったかも知れませんが、それだけではその境涯に辿り着くことは不可能だと思います。


常人であれば異常を感じる場合は自分と対象者、あるいは対象物に対して線の繋がりです。まあまあ達人は面で捉えるかも知れません。しかし植芝先生レベルだと空間全体で捉えます。ただ空間全体で捉えるのではなく、そこに気を満たしているのではないかと思います。合気道の合気はその場の調和を捉えた言い方のようにも思います。つまりその場に敵対するものがなければ武技を発動することはなく、敵意害意があれば「合気」から逸れて武芸を発動する、そんな気がします。


武芸者が持つ特有の直感というのもなかなかに鋭いものがありますが、エピソードから察する植芝先生の合気はこれとは違うように思います。合気道と言えば武道ですが、そもそも「合気」とは武道らしからぬ語彙です。「気を合わせる」訳ですから合わないもの、或いは人を異常と捉え捌く、そういう考えも込められているように思った次第です。

 

日本を代表する一流儀たる合気道の開祖に対して他流の者が勝手に色々書き立ててご不快に思われましたら私の不徳の致すところでございます。何卒一笑に付しご容赦ください。

 

令和参年臘月十四日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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