不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

稽古の質

昨日、たまたまネットで戸田恵梨香さんのインタビュー記事を読みました。昨日最終回を迎えたドラマ「ハコヅメ」でダブル主演をしていましたが、実像もドラマの主人公に重なるものがありそうです。それで昨年結婚して夫が松坂桃李ですからやっぱりすごい女優なんでしょう(笑)
彼女が影響を受けた俳優の一人、樹木希林さんが生前彼女に言ったアドバイスが目に止まりました。
曰く「ちょっとした仕草に俳優の日常のクセが現れてしまうから、俳優は、日々の暮らしを丁寧に送ることも大切」。
これ、なかなか奥が深い言葉です。

 

この言葉は別に俳優だけに留まりません。伝統芸能を継承している全ての人に当てはまるのではないでしょうか。
私の場合は武芸や禅ですが、例えば武芸では道場の中で汗水を流して限界まで激しい稽古をする人もいます。それはそれで重要ですが、優れた武芸者は若い頃やっていた稽古だけを何の疑いもなくずっと継続することはある意味怠慢とも感じます。稽古の量を増やしてスキルを上げるのは人生全部で同じ効果をもたらせません。そしてそれは思考能力、創意工夫を減退させます。体こそ鍛えられますが、私は逆に神髄から遠ざかる気がします。


歳を経てレベルを上げるとは質を変えること他なりません。故に同じ事をずっとやっていることは徐々にその意義を失うと言って良いと思います。初心者の頃にやっていた稽古内容で同じ効果を得ようと思うなら、上級者はもっともっと稽古が必要になり、やがてどんなに稽古してもかなり伸びなくなってくる。(少しでも伸びるじゃないか!という人は効率を無視してます、そういう人は戦闘で真っ先に死にます)やはり稽古の質そのものを変えねばなりません。

 

私も10代半ばから武門に入ってから30年以上になりますが、稽古、或いは修行というものの概念を年季を経るごとに別の視点で見るようになりました。それは取りも直さず道場の中からもっと外にも修行の場を求めること他なりません。それは野や山に行けという事ではなく、日常生活の中での活動に武芸に役立つ部分にフォーカスして、稽古の一環として取り込む。そのようなものだと私は思っています。ことさらこんな事を現在書かねばならないのは、江戸時代ではその当時の生活様式が武芸の所作や稽古に合致していたから、ことさら書く必要もなかったが、現代では似ても似つかない生活様式のためにそういうことを意識してする事が必要、と言えます。

 

例えば歩くこと。江戸東京博物館にはとある武士の日常が記された日記がありました。それを読むと彼は仕事の時などは外回りをすれば20キロ、休みの日でも「ちょっとそこまで出掛ける」だけで10キロも歩いたりしています。足腰の強さだけで既に我々などを遥かに凌駕してます。記録メディアも乏しい時代でしたから多くの人は見聞きしたものは無意識に全身耳にして記憶できたと思います。視聴覚力も優れていたでしょうし、自然の知識も体験からそれなりに詳しかったと思います。たとえば春夏秋冬の変り目も自然を見てすぐ分かったでしょうし、草木の知識なども一般市民でもある程度知っていたと思います。刃物なども日常的に使っていましたから扱いには慣れていましたし、手入れの仕方も当たり前の事でした。

 

例えばそういう時代の人が書いた伝書を、現代の我々がそのままやってもたぶん、伝書の著者が当たり前の者として見做していた基礎となるべきものが大きく欠落していて、伝書を書いた人の意図を完全に再現できないと私は考えます。さりとてその間隙を埋め合わせるために稽古をするのは時間の無駄です。(ま、働かずに済むほどリッチな人は別ですが)なので日々日常で行っている動きを応用するのが一番近道ではないかと思うのです。その方がいいもう一つの理由は、もしそれができたら無意識にその習慣が身に付くためです。試合のある武道や格闘技はそういうものはあまり関係ないかも知れませんが、常時戦闘態勢を敷いている(つもりでいる)武芸者にとっては意図を潜在意識下に抑える、あるいは意図を隠蔽できることはかなり大きい。

 

限られた時間と場所、或いは条件で、限りなく高い質の鍛錬をする為には須く数字や総量に因らない、独自の創意工夫が必要である、と申し上げます。

 

令和参年長月十六日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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