不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

古の音

私はよく、古の音に思いを馳せることがあります。

と言っても音楽とかではなく、日常生活で発生する普通の音、雑音の類です。

 

現代の社会生活からあらゆる機械音を差し引いたら江戸時代と同じ生活音になるかと言えば否です。多分全く違います。現代の私たちが使用している日常生活品、特に日本で流通している大半の製品は極めて高い耐久性と精度があります。

その上壊れるまで使う人は最近ではめっきり減って、流行によって買換えることが多く。昨今日本でも貧富の差が語られるようになりましたが、それでも流行によって買換えないとしてもそこそこ耐久性のあるものを使っているはず(たとえ100均製品だとしても)。私たちの快適な生活環境は大変優れた製品やサービスに因って成り立っていると言っても過言ではありません。故に私たちは昔ほどにはものを大切に扱うという習慣をしなくて済んでいます。

 

翻って江戸時代、家内制工業で全ては人の手によって一つ一つ作られた時代でした。現在とは別の意味で極めて精巧な製品を市民は使っていました。極貧の家庭であっても多分、ちょっとした漆器や陶器の類があったようです。ただそれは大変高価なもので(それ程高価でなくとも)、数代前に購入されたものかも知れませんが、要するにずいぶん長い間大切に使われていたというケースが多いようでした。そしてそれらは今よりずっとデリケートで壊れやすいものでした。だから食器のみならず、全ての家財道具は製品寿命を延ばすために至極丁寧に扱われ、あらゆる工夫が成されていました。茶道や日本の伝統的慣習の中にも今でもその一端を見ることができます。漆器はかなり丁寧に扱い、ひび割れて使い物にならなくなるまで使用したり、陶器などは金継ぎなどして、かなり長いこと使っていたのではないかと想像します。下駄も歯や鼻緒を何度も変えて、台座も割れたらかすがいなどで固定し直し、いよいよダメになったら竈の薪にされたと思います。あ、金属は再利用でしょうかね。

着物も同じで成人になったら可能な限り着物を長持ちさせるべく、所作などにはずいぶん心を砕いたと思います。

 

音楽も当時は貴重なものだったと思います。楽器は少なかったでしょうし、弾ける人も割合で言ったら少なかったでしょうし、聴く機会もそうそうあったとは思えません。だからたまに聴く音楽は大変素晴らしいものに聞こえたはずです。

 

そのような行動規範の中で醸し出された音というのは一体どんなものだったのか。多分静謐の中で聞こえる優雅な生活の雑音、そんな感じではなかったでしょうか。

 

そういうことをしていた人たちの日常の所作、立居振舞を想像することは多分、武芸をする上で大変に参考になると思います。そして江戸時代に熟成した各流派の動きもそういうものが基盤になっているはずです。

重いものを持つことも、長い距離を歩くことも、モノを数世代に亘って保持することもない現代人たちが巻物に書かれていることをそのまましても、古の武芸者と同じにならないのはそういう理由もあると考えています。武芸を極める一つの指針として、単なる道場稽古から本物の武芸へと昇華させるために、そういう視点も重要ではないかと思った次第です。

 

令和弐年霜月二十日

不動庵 碧洲齋

 

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