不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

正師逢見ということ

昨日の坐禅会では師が自分の先輩について語ってくれました。

前にも紹介したことがあったかも知れませんが、もう一度。

その先輩は坐ることに徹底して、それこそ他の仲間が作務や托鉢をしていてもずっと坐り込んでいたぐらい徹底して坐り、知識を極めていたそうです。

その先輩はよく師に手紙を書いたそうです。

掛錫した僧堂や師家、老師を批評したり、感想を述べたりしたものだそうです。

あれはよい、あれはまずい、少し違う、こうでもない、等々。

そんなことがあって数回僧堂を移ったそうですが、結局全く見照体験を得られず、還俗してしまい、今は別の仕事をしていると言うことです。

自分が理想とする師匠に師事して、完全無欠な仲間たちと、素晴らしい環境の僧堂で誰にも邪魔されずに静かに修行に励む、この先輩はそれを求めていたようです。

個人的には白隠禅師が残された言葉「動中の工夫は静中の工夫に優ること百千万倍」について、何も思うことはなかったのかと感じます。

思うようにならない現実世界、限られた時間内での修行や稽古、概して修行が進む人はこのカオスの中で修行を徹底してきた人だと言えます。中国のことわざには「人生十のうち、八、九は思い通りにならない」というのがあります。これを「思い通りになるのは10-20%程度しかないのか!」と思うのか、「10-20%程度だけは思い通りになるのか。」と思うのか、それによって修行をする意識ががらりと変わると思います。

自らの修行を外に求める、これは多分「魚を求めて木に寄る」ような行為のに思います。良い師、良い道場、よい仲間がいないと修行ができないなら、その人はどの道であれ修行には向いてません。私の同門にも幾人か、そういう人がいました。師に完全を求めたり、武技や系統の不完全な部分をあげつらったり。漫画に出てくる流派でもない限りはどの流派も完全なものはありません。体系にしろ歴史にしろ完全なものなどありません。不完全なところを補う努力が武芸の醍醐味ではないかとすら思います。ないものを求めて漂流するその人たちは、結局、どこに道場があるのか分かっていないように思います。

道場はまさに今、思い立った人の胸の内にあります。禅や武道を始めたい、そう思ったらそこが道場です。自らの求道心が師であり道場そのものです。運がいい人は得がたい師に出会うことがありますが、出会わなかったからと言って、求めたものができない法はありません。何もなくても誰もいなくてもできるものはできます。私はとても運がよい方の部類ですが、運の良し悪しとその道を歩もうという本人の意志は全く関係ないとも言えます。

特に現代ではインターネット上に膨大な量の情報が行き交い、およそ掲示されていない情報などないのではないかと思うほど。ただ、それらは決して先生や道場の代わりにはならないと言うことをよくよく心すべきかも知れません。

良い師は得難いからこそ良い師です。中二病みたいにドラマチックに出逢えることは基本、夢見ない方が良いと思います。(彼氏彼女の出会いも同じではないでしょうか・笑)ただ、出会い以後をよくすることは出来ますので、その時に求められる条件や資質こそ、出会うまでに培ってきたことそのものです。

求道の志士たちが善き師に巡り会えることを祈っています。

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平成二十六年葉月二十五日

不動庵 碧洲齋