不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

曇りなき眼で見れば恐れなし

ある時、修行中の二人の雲水が雨で増水した川にたどり着きました。

岸辺には旅の女が難儀していたため、 雲水の一人が声をかけました。

「私どもが対岸まで担いで差し上げましょう」

雲水らは褌一つになり、女と衣鉢をそれぞれ担いで渡りました。

女は深く礼を述べて去り、 雲水らも再び衣鉢を正し、歩き始めました。

しばらくして衣鉢を担いだ雲水は心中に疑念を持ちました。

「我らは日頃厳しい修行のため色欲を避けているのに、 先刻の行為は如何なものか」

やがてその雲水は女を担いだ雲水に問いかけました。

「君は仏に仕える身でありながら、女と接したことを恥じないのか」

雲水は一言返しました。

「・・・なんだ、君はまだあの岸辺にいるのか・・・」

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これは私が好きな禅の逸話の一つです。

この話しでは若い僧侶の苦悩がよく描かれていると思います。

この後、彼が立派な老師になれたと願うばかりです。

ところで、もしこの僧が20代ではなく50代で、しかも批判したのが直後ではなく8年後だったらどう思われるでしょうか?

ご存じのように中国や日本では50歳は「天命」と呼ばれ、己の器量の在り方、存在理由などの、いわゆる宿命というものが分かってくる年齢に当ります。

もし50代で8年後に批判したとしたら、その人物は間違いなく「愚か者」と言わざるを得ません。そういう人は例え肩書きが「老師」であっても、肩書きだけで全く価値がありません。私はそういう人は絶対に評価しないことにしています。

それは自己の好嫌の為ではなく、後進に道を誤らせてはならないからであり、我が道の道中の塵芥を掃く為であります。

僧堂でも清掃は重要な作務であるのと同様、愚人を賢人と見誤らないことも、武芸者としては極めて重要な修行であります。

平成二十四年師走三日

不動庵 碧洲齋