私は武芸とはある意味、シーシュポスの岩のような、終わりなき徒労のようなイメージを持つことがあります。
シーシュポスの岩とは神話で、シーシュポスという若者が罪を償うために神より命令を受け、大きな岩を山の頂上まで運び上げるようになった、という話し。
シーシュポスがあと少しで頂上だと思うと、岩はまた転がり落ちる。
いわゆるエンドレスで続く苦行のようなものです。
ある程度、修行が進むと道がなくなります。
道がずっとある人も、もしかするといるかも知れませんが、武芸を全うにやっている人は多分、あるとき、道が断絶しているところに至ると思います。
そこに至れた人は大抵二つの選択肢を秤にかけます。
一つは道を極めた。・・・
その道の最高点に至った、そう思うことです。
そして振り返ればその道の終点に至ろうと苦労している人たちがいます。
なので自分がガイドしてやろうと思う訳です。
人によってはなにがしかを求めるやも知れませんが。
もう一つの選択は、終点から道を進めるために切り拓くこと。
方位を定めて鉈を振るい、木を切り倒し、汗水流し、生傷が絶えない辛苦をを舐めつつ更に前を進むこと。
道があった頃は非常に楽でした。
自分で道を造るとなると、半端な労力ではありませんから。
なるべく楽に道を切り拓こうとします。
その為の技術を研鑽します。
一心不乱に研鑽し、試し、切り拓いていきます。
その苦労を見て尚、背後から付いて来るだけの人がいます。
一緒に拓く苦労を分かち合う人もいます。
違う方向に向かう人もいます。
どちらにしても非常な努力をする。
当然、ジャングルを切り拓くようなものだから終点は見えない。
あ~なんでこんなことしているんだろう・・・と、よく思います。
要するに後者がシーシュポスの岩のようなものです。
この労力に対して何かすることが武芸の奥義ではなかろうかと思います。
労力を惜しむ人でも武芸は続けられますが、決してフロントラインに立てません。
労を惜しむ人はある意味、やっているつもりになっているだけ。
後塵を拝しているうちはやっている内には入らない、というと端的でしょうか。
後塵がないところにはシーシュポスの岩が待ってますが、そここそ、本領を発揮すべき、本来の場所です。
好きでやっているのだから、こんな惨めなイメージではないのですが、現代の戦争で役立つ技術ではないのによく続くなと、時々客観的になってしまいます。
そんな視点がある内はまだまだ未熟だと思いつつ、駄句を一句・・・。
荷を背負い
行方定め
踏み固め
拓き成しつつ
歩む道かな
平成二十四年神無月二十四日
不動庵 碧洲齋