不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

宿命と運命

私は割と宿命を信じています。
人には必ず何かしらの宿命があると信じています。
いや、生きとし生けるすべての生き物のみならず、自然、人工を問わず作られたものにすら宿命はあると思っています。
それは決まった何かの姿や形になるべきものなのか、何かに作用すべきものなのかは分かりません。
そしてそれは初めから決まっているものなのか、それが世の中から消滅するまでに方向性が決まるものなのかも、私には分かりません。
例えば宿命は戦略ミサイル潜水艦の秘密金庫内にある命令書のように予め定められていて、開封命令が来たら開いて確認するような、すでに決まっているものなのか、iPS細胞のように最初は何ものでもないがこれから形作っていき重要になる何かであるものなのか、私には分かりません。

ただその前提の問題として、宿命を胎動させるきっかけとしてのキーである運命を活性化できるかどうかが問題ではないかと思います。
その人が生きてきた過程で、その経験や記憶、知識、感性などが働きかけて奥深くにある宿命が動き出し、形作っていく活動が運命だと思っているのですが、そもそもそのように自ら持つ宿命に働きかけることをする人自体、それほど多くないように思います。つまり運命を動かす行動を自覚して行う人は少ないと思います。「運命に出会う人が少ない」というのかも知れませんが。
故に大半の人は宿命に気付かずに一生を終えるような気がします。子供の頃からなるべきものを悟ってそれに向かって努力する幸せな人もいるでしょうし、文字通り天命(50歳)を経て初めて世に在って自ら為すべき事に気付く人もいます。もしかすると人が死ぬ間際にする後悔の大半はやっとそれに気付き、しかし宿命を果たせなかったことの後悔なのかも知れません。
最近はあまり言いませんが「志を遂げる」というのは宿命にリーチして形作り、それを世に活かす方向で運命を動かすという意味ではないかと思った次第。
また、宿命というのはどのようなものであれあなた個人を豊かにさせるよりは何らかの意味で世の役に立つものだと思います。

仏教では因・果・縁という言葉があります。
因果と言えば「因果応報」ですし「因縁」はよく使う言葉です。
よく分かりやすい説明で使われるのは因が種で果は結実した果物、縁は結実させるまでの土の栄養だったり、雨水だったり、太陽光のような育成させる要因とされています。なので因果だけあっても実は結実しません。縁があって初めて結実します。
そこから因はまさに宿命そのもので、それを全うさせるものが縁が運命ではないかと私は思ったりします。
宿命は既定路線なのかそうではないのか分からないにしても、自らどうにかできるものではありませんが、それを発動、胎動、起動、形成させる条件=運命作りというのはある程度自分でも動かせるものではないかと思った次第。
なので宿命は決まっているかも知れませんが運命は決まっていない、そんな言い方ができると私は思っています。

時間がある人、あるいは人生で立ち止まっている人は自分の棚卸しをしてみるといいかもしれません。
今自分にある知識、経験、興味、指向性を俯瞰したとき、それがどこかに続いている道を指し示していまいか、どこかに向かってはいまいか。何かを指し示してはいまいか。
もしかすると自分に宿った宿命を自覚できるかも知れません。

これは誰かに宛てたものではなく、自分自身に言い聞かせるように、ふと思い付いて書いたものです。
丁度天命である50歳の時に悟るものこれあり、書き留めてみたものです。

令和六年弥生四日
不動庵 碧洲齋