不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

小我のものさし

昨今よく「○○ガチャ」という言葉が使われます。
よく聞くのは「親ガチャ」でしょうか。
つまり自分の才覚や努力では到底埋めることのできない格差が誕生時にすでにある、という意味だそうです。
大会社社長の子供として生まれた場合と、ギャンブルばかりする親の元で生まれてくるのとではすでに生まれた時から埋めがたい格差があります。
そしてこの世は偉人伝に出てくるような、幼い頃から大志を持って艱難を耐えるような人物は希有です。希有だからこそ偉人伝に載るわけです。99.9%はごく普通の人間です。
故に生まれた時に格差があれば、埋めがたいものだと思ってしまうこともしばしばかも知れません。

私は今までアメリカとオーストラリアに長期在住したことがあります。
特にアメリカでは貧富の格差、人種差別は日本人からすると少々信じがたいほどです。
有に数百坪にもなろうきれいに手入れされた大きな土地に立っているのはこれまた城と見まごうような家で、ガレージには高級車が何台も並んでいます。一方で粗大ゴミが並べてあるような狭い庭(日本よりはずっと広いですが)の古びた家に住む黒人、平日の昼から外をボーッと眺めている、そんな風景を見てきました。
肌の色が違うだけでどんなに努力しても社会システム全体がそれを受け入れないようになっているという事実を目の当たりにしてきました。これは本当に気分が悪くなります。
私の見立てても日本ほど公平で公正な国はあまりないと言って良いです。
それは少数の不条理を強いられている人たちに我慢せよと言っているわけではなく、世界の国から見て、あるいは国連や研究機関が実際に統計を取った上でそうだと言っているだけです。日本はある一面では世界的に見てかなり住みやすいとは言えます。
学校のクラス、学校、地域、県、会社、国、或いは時代など、色々なものさしで見れば不動の価値などありはしません。すべてが移ろいゆくものです。

ガチャ信者たちは私たちの生まれや育ちの環境は、本来工場からロールアウトした、全く同じの工業製品のように微塵の狂いなく均一で同じであるべきと思っているのかも知れません。しかし実際は同じものを探すのに苦労するほど(というか存在しません)違うものばかり。言ってみればこの宇宙全体はひとつとして同じものがないもので構成されています。私はこの点に神を感じずにはいられません。一方我々人間は寸分違わぬものを作るためにキチガイのように走り回っています。

「世の中はすべて、あなたのものさしでは作られてはいない」

これは私の禅の師匠が昔言っていた言葉です。

簡単に言えば世の中はあなたのためにカスタマイズされていません。
善良な小市民夫婦の間に生まれた子供が幼くして病死したかと思えば、成金で品もないような夫婦の子供は贅沢わがままいっぱい成人まで育つ、そんなこともあります。
世の中の事象はどこか誰かのものさしによって設計された、特定の誰かのためものではなく、そのために運行されていません。

そして不幸を嘆く人の多くは、その誰のものさしによっても作られていない世の中に自分のものさしを当てはめて、それがことごとく合わないことに苦しんでいるのではないかと思っています。
たまたま自分のものさしに合ったところを「幸運」、かなり違っているところを「不幸」と言っているに過ぎません。
私たちは天の意志が那辺にあるのか分からず、そしてけなげにもつい、小我のものさしなどで計ってしまわずにはいられない辺りに苦しみを生んでいるような気がします。そもそも天に意志があるのかどうか、その辺りでも悩みます。神の試練神の賜などなど。
実際そんなものはないのかも知れませんが、あると仮定するのが宗教で、それを上手く活かしている人は比較的豊かに暮らせているように思います。やはり人ですから無機物相手よりも、仮想有機体の方が相手しやすいのかも知れません。

神意があろうとなかろうと今目の前で起こった物事を雑念を交えず無心になってクリアして、日々小我のものさしを振りかざさないことが心の平穏を保てる秘訣ではないかと思った次第です。

令和六年弥生四日
不動庵 碧洲齋