不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

徒然なるままに

このところ暫くブログを書いていませんでした。

ま、こういうものは気分で書くもので義務ではありませんから。

どうもこのところ、人の在り方について考えさせるようなことが幾つか起きていてウンザリさせられています。ハッキリとは書きませんが一つは武芸、一つはSNS、最後は家庭・・・とだけ言っておきましょうか(笑)。基本、広義の意味で私の修行に関係しないようなことには基本無関心ですが、いささかなりとも縁がある場合はイヤでも目にせねばならず。

武芸の修行は基本一人です。便宜や効率を考えて集団でやりますが、原則として武芸者は一人であるべきだと考えています。武芸者は兵士ではありません。集団の一人が兵士であるなら、個人の集大成が流派とか道場とかそのようであるべきだと思っています。

武芸の修行、だけではありませんが、真剣に打ち込んでいたら基本脇目も振らずに一心不乱に一つ一つをこなしていくはずです。修行は「自分を広げる」とか「自分を高める」というものではなく、「自分を深める」「自分を充たす」ものではないかと思う次第。その副次効果として「自分が広がる」とか「自分が高まる」ことはあると思います。年季や段位、コネで権勢を広げようとしたり、より高いところに居座ろうとするなどと画策しているようではこれはもはや武芸者ではなく武道屋。武道という道の脇に店を構えて通りすがる人を待つだけの人です。どんな道でもいいのですが、人は皆、自らの道を歩くべきで道脇に店を広げるべきではありません。道を一心に進む、この単純で誠実な行為がいつか必ず結実するものであると私は考えます。結実をするのが武芸者なら、果実を横取りするのが武道屋、そんなものではないかと思っています。

高いところは気分がいい。しかし高いところほど足場は悪く、そして人に見られる。また、落ちたら命の危険もある。私は昇段する度にそのように自分に念じています。

SNSなるものを使い始めて10年以上になりますが、現在では幾つかのSNSを利用しています。どれも一長一短はあります。必要に応じて使うべきかと思います。私の場合はやはりグローバルなのでフェイスブックがメイン。海外の同門や禅友たちと交わるにこれがないと大変不便になります。グローバルな視点で観ると国内だけで使われている幾つかのSNSはめまいがするほどに世界が小さい。SNSが小さいのではなくてそれを利用している日本人の視野が狭いのかも知れない。これは真に憂うべきことであると感じます。連絡用として見ますが、最近は本当にそれ以上ではない。日本人はもっと広く世界を見るべきだと思います。以上。

隣で誰が何の修行をしていようとも、自分には関係のないことです。ましてや隣人がサボろうが怠けようが休もうが、自分自身の修行には全く関係もなく。それが許せない、言わずにはいられないのは自分の修行が外を向いていて、自らの道を見ていないからです。正直、同門後輩がちょっとぐらい休んでいたり、調子が悪くてもほとんど気にもしません。要々で気を配ればよいだけです。他人がどのように取り組んでいるか、その観察者になることぐらい自分の修行に悪いことはありません。しかし敢えてそれが許される、その行為すら修行と成せるのが、いわゆる「先生」とか「師匠」とか、そういう人たちです。私も今やそういう類の端くれですが、未だ直門以外から先生と呼ばれるのは好きではない。

武芸の奥義が人殺しの技術や知識ではないというのが真理なら、例えば(あくまで例えば、です!)茶を点てる技術や知識もまた、茶道の奥義ではないというのもまた真理かと。ナントカ道「を」極めるのではなく、ナントカ道「で」真理を追究するのです。技術や知識には後先、高い低いがありますが、その事実がそのまま、極めるための道具に過ぎないことの明らかな証左でもあります。故に違う道を通じて何か得られそうな真理を見いだせそうなら、低頭して教えを請う。私はそのようにあろうと努めています。

なにか要領の得ないことを書いてしまっていますが、ハッキリと書くと角も立ち波風も立ちよいことは何もないのであえてぼかして書きました。

平成二十七年卯月二十一日

不動庵 碧洲齋