不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

自我地獄

我が家には可愛い三毛猫がいます。
食べる時は食べるに成り切る。
寝るときは寝るに成り切る。
毛繕いするときは毛繕いに成り切る。
鳴くときは鳴くに成り切る。
猫に限らず動物は心ここにあらずという状態で何かをしないと思います。
「心ここにあらず」があったとしても動物は「心ここにあらず」に徹する、そう思います。
その行動、状態が自我そのもの、ありのままがそのまま自分ではないかと思います。
猫は宇宙全部を引きずってなお、軽やかに歩き回っている、そんな感じです。
つまり動物は人間が考えているような「自我」を意識していないと思います。

人間は違います。
古来より何かにつけて「自分が自分であること」を色々な場面で証明せねばなりませんでした。
自分が自分であること、自分に付加価値を付けるために涙ぐましい努力をしてきました。
自他を明確なコントラストにかけるためには、ときには滑稽な、ときにはおぞましい行動に出ることもありました。
特に現代では「自分が自分であることの証拠」をあらゆる場所で見せねばなりません。
ネット上、物品の売買、会社の入退室やセキュリティー、などなど。
ものや他人を自己生存のためではなく自己満足のために所有したい、所属させたいというのも「自分が自分であること」が強く出た場合と言えます。
ナントカハラスメントやあるいは闘争そのものも自己の存在を認識するための行動かも知れません。
特に日本では欧米圏と違って言語の中では主語が省かれるほど「自我」が薄められた社会だったのに、IT化国際化が進むにつれて殆ど病的なほど「自我の存在」を強く求められるようになりました。
個人的にはこれが昨今心療内科の受診者が増えている原因のひとつではないかと思っています。

自分は可愛い、自分が大切、自分にこそ価値がある、自分が正しい、これがあくまで相対的で、その逆の考えの人もいるという認識があって初めて調和の取れた心が形成されるはずですが、自分の価値観が絶対的になるといけません。精神衛生上良くないだけではなく、肉体的にも色々障害が出てきます。現代の社会は自己認証に強迫性があるのではないかとさえ思います。

私の師は「何かする場合は自分を勘定に入れないで考えてみる」と言ったことがあります。
日本でも「己を虚しゅうして事を成す」とか、戦時に悪用された「滅私奉公」などというのもそうかもしれません。
イエス・キリストやブッダもそういうことができる人だったのかも知れません。

もし、仮に「自我」というものがあるとしたら、どんなものか、師匠たちから聞いたことをまとめました。
人は皆、自分で自分を認識することができない。
目は見るための器官ではあるが、自分を見るようにはできていない。
自分の目では自分の体の一部しか見ることができず、自分の顔は見ることができない。
精神的な自己認識というのも多分、このように不完全なものではないかという事。
つまり人間も他の動物と同じく、そもそも自己認識するようにはできていないのかも知れません。
では自己を形成しているのは何なのか。禅僧というのはなかなかおもしろい考えを持っています。

例えばここに白米のご飯があったとします。
この米を作る農家の人たちが作ったのは事実ですが、育成、収穫、輸送、販売まで考えてみます。
育成するには水や肥料が必要ですが、肥料とて誰かが作ったもの。水も水路がなければ流れてきませんし、その水を農業用水に準備した人もいます。
収穫でも農業機具や農業機械が必要になります。農業機械であればエンジンを搭載した複雑なものですから大変多くの人の手を経てから組み立てられ、販売され、農家に渡ったはずです。燃料に至っては中東のどこかの油田からはるばる遠く日本に運ばれて、精製されて近隣のガソリンスタンドに運ばれ販売されました。
輸送では積み下ろしや輸送で労力がかかっていますし、積み下ろしに使われたフォークリフトやトラックは定期的に点検される場合は指定工場で行われたはずです。もっと言えば指定工場で使われる道具とて長年色々工夫されたものが使われています。
販売では大手チェーン店でしょうか、どうしたら良い製品を知ってもらえるか、どうしたら買ってくれるか、色々工夫したはずです。
日常のごくごく一部を切り取っただけでも無限に近い膨大な人の手を経ていることが分かります。
世界中の、あるいは何千年の範囲の人たちの営みの結果がごく僅かずつ関わり、それが一定の指向性というか集約されたところに自分がいる、と考えます。上記の人たちの想いが僅かずつ集まったものが本物の自我に近い、だから無数の誰かの僅かずつの想いが集まって形成されている、というのでしょうか。殆ど無意識に近いのかも知れません。それが何かの弾みで不良を起こしたり、障害を起こして悪い意味での「自我」が起こる、と考えられます。
ま、禅では正真の「自分」というのはもっと相対的なものから外れたものだと思いますが、多くの他人の想いのカケラが集まって自我ができるというのはある意味なるほどと思ったりします。
そういう意味ではよく「人に生かされている」とか「感謝を忘れない」という考えは正しいと思います。没自我的なものが良いのでしょうが、あるいはその自我を構成しているのが何なのか、よく考えてみるのもよいと思います。そう考えると人の関わり合いだけでもこれだけ多いのに、更に自然との関わり合いを考えると本当に神意があると思ってしまいますね。

 

令和六年如月十九日

不動庵 碧洲齋