不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

ただそのままに

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「イヌはワンワン、ネコはニャーニャー、スズメはチュンチュン、カラスはカーカー」

よく禅の師匠が言う言葉です。

それらの動物は「自分」を意識しません。「自分」がその動物であることはもちろんのこと、自分の存在すら意識していないのかも知れません。自然本能として個体を守る以上には自分は無いのかも知れません。

人は「自分はワンワン」と言っているのに相手は「ニャーニャー」と言うのでストレスが溜まる、だから相手にも「ワンワン」と言わせたい。でも相手は決して「ワンワン」とは言ってくれない。概して人のストレスはこんなものではないかと思います。

「それはそのままで成り切っている」

一切成仏というのでしょうか、楽しみ尽している、悲しみ尽している、怒り狂っている、成り尽しているそこが仏、悟りの境地だと師匠がよく言います。江戸時代、臨済宗中興の祖である白隠禅師は、富士山の大爆発で降灰して人が餓えや病に苦しんでいるときに「日々好日」と言ったそうですが、それは多分、妄想や幻想など見る余裕もないほどにその苦しみ尽しているその様を言ったのではないかと思います。

日本は世界的に見て、ちょっと心配なぐらいに平和国家です。

欧米諸国がイスラム系テロに怯え、年々入国時の警備がやたら厳しくなってきていますが、日本は今現在、イスラム系によるテロは全く起きていません。一般社会においても大変治安がよく、日本社会に慣れてしまうと海外ではなかなか危険な目に遭います。

そのくらいある意味よくも悪くも善良な国家ですが、公式に日本を敵対視している国家が3つもあります。初めのうちにうまい汁が吸えることを知ってしまったからなのか、言えば言うほど無理難題も聞くと知ってしまったからなのか、この状況をよく欧米人の友人に説明してもなかなかこれが理解されにくく。現実にはそれらの国から日本にやってくる観光客数は全体の4割。その国の国民が本気で日本が嫌いなわけではないはずですが、その国の政府はキッパリと公言しています。国際感覚が先進国にしてはあまりにも貧相な日本人の想像力たるや、いささか現状の見え方に不安を覚えることはあります。

国際情勢の話しではありません。

知り合いに異様なほど我執の人がいます。反論というのかクレームを付けるときは涙声で声を震わせて、目がイッているような感じで叫び狂うような感じ。時々ではなくていつもです。自分の境界線には異常なほど執念を燃やします。私に対しても周囲が引くほどに敵対心を持ちます。ま、敵対心を持つ人は一人二人ではないのは、私の不徳と致すところではありますが。

昔はそれが嫌でノイローゼ気味になりました。うつになり掛かったこともあります。やっている本人はそれが楽しいのか快楽なのか分かりませんが、周囲から見たらサイコです。

禅をやり始めてから全く苦にならなくなりました。ほぼ毎日、不平、不満、吝、愚痴、嫌味、罵倒、揚げ足、ダメ出し、顔を合わせると実務的な会話以外の8割ぐらいはそんな内容ですが、心が痛んだり怒りに覚えたりストレスに感じるのはそこに「自我」があるから。相手を矯正させようという意志が働くから。世間と比べてその人を見てしまうから、社会常識と比べて考えてしまうから。「イヌはワンワン、ネコはニャーニャー、スズメはチュンチュン、カラスはカーカー」それはそのままだと思い、流水の如く水に流すだけ。師匠は世の中の96%ぐらいは水に流せると言っていたことがあります。聞いた時は「それはないだろう」と思いましたが今は確信があります。そういうことを捌く。もっと進むと透過させます。

自我同士のぶつかり合いで人はすり減ってきています。ましてや現代社会では自分を認証させる機会が増えたり、自撮りのように自分自身を映す機会が激増しています。自分を意識しないことはなかなかむずかしくなってきました。しかしそれ故に自意識を敢えて放棄することは、ストレスの多い社会ではなかなか重要ではないかと思います。

ストレスという言葉はフランスだったかどこだったかの心理学者が発見したと聞きました。なかなかのイケメンだったのですが、妻も美しく、その妻が事あるごとに夫の不倫を疑いそういう物腰になってくると、イケメン心理学者はどんどん体調が悪くなっていき、それがストレスだということに気付いたとか。これは戦後の話しだそうです。やはり現代社会になるとストレスが多くなってきたという事でしょうか、近代以前は自我意識を持つことが少なかったのでしょうか、いつもよく考えるテーマです。

不幸なことに日本に対して敵意を持っている国は世界にたったの3ヶ国しかないのに、その3カ国は日本に最も近い3カ国です。国を動かすことはできませんし、国そのものの自意識である主権、領土、国民どれも侵蝕されるわけにはいきませんからどうしてもむずかしい選択を強いられますが、個人であればもっと色々な選択はできます。

個人的にはそういう状況から逃れ得る方策は幾つかありますが、正直今のこの状況を楽しんでいると言えなくもない。如何にして自分を無にできるか、あり得ないような言いがかりやクレームをいかに透過できるか。禅の実践の場として大変いい稽古台にはなっているように思っています。最近は相手もさることながら、私がふと息を抜いた瞬間や隙がある瞬間を狙ってきますかから、日々生活の中で如何に隙を見せずに無に成り切るか、今はそれが最大のテーマです。けっしてMではありませんので(笑)

昨今、人はあまりに自分を意識しすぎな気がします。世界中の人は直接その眼で見ることができますが、自分自身だけは直接見ることができません。その見えない自分に執着し、狂気に走っています。今少し「自分が自分が」という意識をなくしたら、世界はもとより個人も穏やかな調和のとれた社会になるのではないかといつも思います。自分が無くなるほどに相手を想う、とまでは言いませんが、そのように努力して自我を切削していくことは自身を高めるためには重要なのではないかといつも思っています。

平成二十九年卯月三十日

不動庵 碧洲齋