不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

我想う故に我在り

昨日は息子と「自我」についてちょっと話しました。

息子の知人でちょっと困った人がいます。

自分の所有物、自分の領域、自分の領分に対して異常なくらい固執する人がいます。

ある程度、自分の領分に対しては関心は持つべきですが、私が知る限りはちょっと異常に感じます。

息子はどうしてそういう心が芽生えるのか、関心を持っていました。

自分を防御するために過剰に攻撃的になる。自意識過剰気味の人に良くある話しですし、30歳過ぎぐらいまでは私もそんな感じだったかも知れません。

自分のものとそれ以外、自分とそれ以外、そういう人は「自他」をハッキリ分けて、摩擦を起こしたり衝突することでしか「自我」を認識することができない類の人間ではないかと話しました。

そういう人には自我を消して接すれば、衝突したり闘争する対象がなくなるので、相手が困惑するので御しやすくなると話しました。相手を傷つけたりしないと自我を認識できないなど、知性ある人間のすることではないと考えます。わがままだったり独りよがりだったり、徹底して相手のミスを攻撃しないと気が済まないような人は、自意識過剰です。

イエス・キリストが言った「罪の無い人が石を投げなさい」という言葉に、疑いもなく自分には石を投げる資格があると勘違いする人でしょうか。

自分自身を記録したり、自分自身の容姿を記録して映し出す機会が増えてきている昨今、いやでも「自我」を意識させられることが多くなってきました。ネットで全く知らない人とも比較できるようにもなってきました。そうするといやでも自分と比較したくなるものですが、それが現代社会の病気ではないかと思っています。

相手が病的なくらい自意識過剰だったら、自分を消すように努めてみなさいと息子に言っておきました。

ムキになって抵抗する、言い返す、反撃する、これでは相手の自我を刺激して増殖させるだけです。悪いことを言っているときは、相手も心のどこかに黒い石のようなものを感じています。そこでそれをサラリと流せば、結果その黒い石を強く自覚させてやる良い機会にもなります。相手になってやるのは相手の機嫌が良いとき、口から毒を吐いていないときだけ。そうすれば相手も自然、徳化されていくというものです。私はそう考えていますが、息子も得ることがあったのか、納得したようでした。

私の禅の師匠は「自我とは脳のかす汁のようなもの」と言っていました。

自我は見たり確認したりすべきものではなく、するもの、徹底するもの、だそうです。周囲が良くなるために徹底する。そして周囲の認識の結び目に顕れるのが自分だというレベルです。自分が自分を認めても意味が無いということです。

なかなか自分を消すことは難しいですが、思えば自分という存在、生まれたときも死ぬ時も自由ならず、自分の想いすら制し得ず、我が身に起こることも制し得ないのですから、認識しようとする自我の領分などとい言うのも所詮幻想なのかも知れません。他に徹底するところに、何かしら尊いものがあると信じたいところです。

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平成二十八年葉月二十六日

不動庵 碧洲齋