不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

己、このいと浅きもの

今朝は雨後の好天だったためか、早朝は水蒸気が出ていたようです。

7時20分頃に自宅を出る頃でもあちこちのカーブミラーが曇ったままで、慎重に運転する必要がありました。

私たちは自分があると思っています。自分たちの存在を疑いません。

しかし私たちは皆、自分の肉眼で直接、自分を見た人はいません。

それでも人は鏡や写真、ビデオカメラ、IDカードなどで自分がいると認識しています。

ものを経由してでしか存在を認識できません。

そして今朝方の自然の悪戯如きで鏡は簡単に曇ります。

毎日利用している道ですら、鏡がないと疑心暗鬼に陥ります。

その道だって本当に道なのか、自分たちが見ている道というのが現実にどの程度なのか、今朝は思い知らされた気がします。

本当に心にある「道」なら本来、速度制限もカーブミラーも標識もないはずです。

分かったつもりであることがいかに多いものか。会社に着いてから嘆息してしまいました。

私は「する」ものです。

私は「なる」ものです。

確認したり見ようとするべきものではないのです。

元々そういう風にはデザインされていないのです。

だから見ることが出来ないのだと思います。

師はよく言います。

赤子は腹が減ったら「オギャー」

不快に感じたら「オギャー」

赤子が言っているのではなく、赤子は「オギャー」そのものになりきっていると言うこと。

自他があるのではなく、その瞬間のそのものになりきっていること。

私と息子は毎朝野良猫にエサを与えます。

朝ドアを開けると猫たちは「ニャー」と鳴きます。

猫は自分がいるとかではなく、腹が減った事実、寒い事実、昼寝する事実、その事実でありきっています。ニャーと鳴いたらそれになりきる。人間だけが「自我」があるばかりに腹が減れば数時間後の心配をしたり、寒かったら凍死の恐怖を、昼寝すれば怠惰の戒めを心配して悩み、それが無限に増加したり、強くなり人を殺したりしてしまいます。私などは几帳面な部分もあるので、そんなことばかりです。

今起きているその事実のみに在り潰れる、成り尽す。よい未来も何も、今この瞬間がベストでなければ生まれてこないのですから、そもそも考えても仕方ありません。ここから離れられないことが人間の人間たる所以なのでしょう。

元々見えてないものを無理に見ようとしたり、ないものを無理にあるように仕立てたり、そういう無理が不整合性を招き、悩んだり苦しんだりするのではないかと、アタマでは考えます。ダメですね。こういうものは見るものではなく観るもの。知るべき事ではなく識る事。だからわざわざ坐ったりしています。ま、坐ったところで分かるわけではありませんが。

何か取り留めもないことを書いてしまいました。

先ず私にできることは今を徹底すること。

それだけだと自分に言い聞かせることにします。

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平成二十五年神無月二十一日

不動庵 碧洲齋