不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

自灯明vs仮想敵

前世紀ぐらいまではどの国も「仮想敵国」を作り、国威掲揚に努めていた国が多くありました。特に中堅国以上ではそういう国策が多かったのではないでしょうか。軍事目的では戦後の日本も例に漏れませんでしたが、国全体としては特にそういう設定をせずして国を繁栄に導けたことは特筆するに値すると思います。国策としての仮想敵国設定はカンフル剤のように短期的には驚嘆するような成果を上げますが、そのツケもまた小さくないことが分かっています。精神衛生的に健全でなくなるということかも知れません。

人に於いても然り。人によっては自分の仮想敵、競合相手を仮想します。そしてその相手に(その相手はそれを認識していない場合もありますが)怒りや憎しみ、撃破したいという欲求をぶつけます。そういうことでしか自分のアイデンティティを発現できない人が確かに多くいます。つまり誰かに鏡を持ってもらい、それを以て自分を映してもらわねば、自分を認識できないと言うことです。

本来、自分は認識すべきものではありません。認識はできません。認識できようにはなっていません。試しに、何も用いずに自分で自分を見ることができるでしょうか。自分の顔はもちろんのこと、自分で直接見えないところが何と多いことか。それでも人は何かを使って自分を映し出して自分を認識しようとします。その方便の一つが仮想敵という不健全な方法です。まあ、その種の炎が気持ちよくなる場合もなきにしもあらず。

私は禅を行じるようになってからは自分で自分を認識しようとする行動はなるべく控え、行為、行動の中に没しようと努力してきました。他人に依存せずして自分を体現させる方便。自分を自分で認識させようとする試みは禅では本来、ありうべからずの行為だとされていますが、本当にそうだと思うに至っています。自分を認識しようとする試みが間違っているのであれば、それを他人に依存する行為も更に間違っています。自分は「する」中にいるだけで、存在を証明するものではありません。存在を証明する必要がないというのかもしれません。自分の言動、存在については他人が気にかけて心配すればよいことであって、自分自身がそんなことをしても意味がないからです。

お釈迦様が最後に言った言葉として知られている「自灯明」は私的にはこのように解釈しています。他人に依存しない。現代では物質的に他人に全く依存しないのは不可能ですが、精神的にはそのようでありたいと思います。仮想敵を作って国威掲揚、自己鼓舞するとは勇ましくはありますが、それでも他人に依存して自己を構築しようとする、なんとも笑える構図のように私には思えます。本然の自分はそういうものに依存しないところにあると思います。自灯明とはさすがお釈迦様がおっしゃったことだけあってなかなか深いと思ったものでした。

逆説的ですが、仮想敵を自分に求め、「鏡」を要求してきたら、無心でスッとその求めている鏡を差し出すのも私のモットーとするところです。「イヤそれは違う」そう言った時点で相手と同化しない、あらぬ自我を発現させてしまいます。自分の意見を押しつけるのではなく、相手が独り相撲をしているバカさ加減に気付かせてやることが重要ではないかと思うのです。独り相撲の愚かさに気付いた人は恥を知ります。そういう人は慎みも覚えるので、同時に二つも三つも識ることができます。そういう辺りで気付く人がいればその人は救われていますし、それでも気付かない人は自分が手を下さなくとも時流に殺されるのかも知れません。まあ、そういう人でもこの世にある限りは救われては欲しいと思ってはいますが。仏の慈悲はそういうものではないかと私なりに勝手に想像しています。

平成二十五年弥生五日

不動庵 碧洲齋