不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

祭神を以て征く道を知る

先日、ネット上の記事で神棚の祭り方について、面白い記事を読みました。
曰く「『一般的には三社造りの宮形では、中央に日本人の総氏神である伊勢の神宮のお神札(神宮大麻)を、向かって右に地元の氏神のお神札を、向かって左に崇敬している神社のお神札をお納めする』とありますが、実は右側の氏神は『地元』ではなくて『ご縁がある神社の氏神』である」。なるほど個人的には納得です。Wiki情報ですが、なかなかおもしろいことが書かれていました。元々「鎮守神」と「氏神」は別物で、地元の神は「氏神」で、「鎮守神」はあとからやってきてそこに住み着き、建物などを建てたあとにそれらが祟られないように氏神を押さえる目的で鎮守神が勧請された、とあります。何やら侵略者や征服者の好みそうな構図ですが。しかし時代が下るにつれてその意味が薄まり、なんとこの相対する2つの神はひとつの神として混同されるようになり、現在では同じ意味で使われているそうです。これは日本人の和の精神と関係あるのでしょうか。世界に目を向けると何千年もの間、恨み辛みで敵対している宗教が多くあることを考えると驚くべき事実です。

私の場合、この鎮守神に相当するのは多分、川口市にある峯ヶ岡八幡神社になります。ご縁は私が幼稚園にいたとき、幼稚園の近所にあったこの峯ヶ岡八幡神社によく幼稚園の散歩で足を運び、これは今でもはっきり覚えていますがそこで甲冑を着た武神を見たからです。20代は海外や地方に行っていてあまり参拝することはありませんでしたが、結婚した前後からはよくお参りに行きます。宮司さんとも友人でいろいろ話をすることもあります。彼の祖父は戦時中、多くの出征兵士らに「武運長久」を御祈祷したそうですが、孫である本人は私の海外の武友たちに「武運長久」をよく御祈祷して頂いています。今までにアメリカ、ドイツ、ロシア、ギリシャ、アルゼンチン、オーストラリアなど、さまざまな国から来た武友たちが参拝しご祈祷を受けていますが、この幾つかの国々は戦時中は敵国でした。この事実が私にとっては平和であることの象徴です。

また、左側の崇敬する神社に相当するのは、我が氏族の故郷である江戸川区鹿骨にある「鹿島神社」になります。鹿島神宮より神鹿たちと共に勧請されたとされるこの神社は鎌倉時代、恐らく1260年から少し後ぐらいに、鎌倉からこの地に移り住んだ我が氏族を含む5氏族の先祖を祭る目的で建立されました。神社の説明には私の氏族の名前も明記されています。750年以上前の先祖が建てた神社に行くたびに力をもらっている気がします。常駐の宮司こそいませんが、比較的大きな神社です。こちらは結婚してしばらくしてからよく行くようになりました。これは縁が強まってきたという事でしょうか。基本私は普通の神社やお寺では「自分個人のお願い事」は決してしませんが、この神社に限っては世界のためになる自分の願いはよくお願いします(笑)

私の親類筋に武芸を嗜んでいる人は私だけなのですが、よく考えると八幡神社の八幡神(八幡大菩薩)も、鹿島神宮の祭神、建御雷神(たけみかづちおおかみ)もバリバリの武神格です。これは最近気付き驚いています(笑) 特に八幡神は「八幡大菩薩」と称されて、早くから神仏習合がなった神だとされていますので、これまた私にはとても深い意義があります。この2つが私の祭神であることと、今の私の生き方は、かなり関係があるように感じます。

道が見えないとき、道に迷ったとき、自分の氏神や崇敬神が誰であるか確かめると、もしかしたら身分の持つ宿命や道が見えてくることがあるかも知れません。最近はよくそう思います。

令和五年長月二十四日
不動庵 碧洲齋

鎮守社、峯ヶ岡八幡神社

同神社の八万台菩薩像

760年前の先祖が建立した鹿骨・鹿島神社

鹿島神社の祭神、建御雷神