禅宗では僧侶として資格を得るためには僧堂で数年、修行をしなければなりません。
年に2回の修行期間があり、その中で更に1週間単位で何度か集中して坐禅をする期間があります。それを「接心」と呼んでいます。
いくつかある接心の中でも「修行僧命取りの接心」として一番知られているのが「臘八大接心(ろうはつおおぜっしん)です。これは12月1日から8日明け方まで行われますが、これはその昔、お釈迦様が菩提樹の下でその期間ずっと坐禅を組み、8日朝、明けの明星を見て悟りを開いたことからその追体験として修行僧に課せられています。接心は僧堂によって多少やり方は異なるようですが、例えば私の師匠が修行していた鎌倉建長寺では、つい最近まで1週間全く寝なかったそうです。さすがに数年前から真ん中の日だけ、坐ったまま1.2時間程度の仮眠が許されるようになったとか。想像しただけでも恐ろしい接心です。
それが終わると修行僧たちはさすがにくたびれてやれやれ、もしくはほっとするようです。
ある禅僧がいました。ちょっと名前を失念してしまいましたが有名な老師です。
彼はその臘八大接心が終わる度に「ああ、今度も俺は悟れなかった」と言って、悔し涙を流したそうです。普通はあのような荒行が終わったらホッと一息つき、やれやれと思います。しかし彼はそうではなく、得たいものが得られなかった悔しさに歯ぎしりをしたそうです。
私は稽古や修行にあるとき、いつもこの逸話を思い出します。
時間をかけて赴き一定時間を費やしお金を払って稽古し同じく時間をかけて帰路に就く。
これに見合うだけの稽古をしていない人は全く以て論外ですが、それをクリアしても・・・
「本来修行はそういうレベルのものではありません」
コスパに見合ったことをしたかどうかというのは話にもなりません。
お金と時間と労力はほんのきっかけ、本来得たいと思うそのものに繋がるきっかけを掴むためです。
故に労働単価にする事はできませんし、義務でも権利でもなく。強いていえば求道心、かと思います。修行はそういうものだと心得ます。
毎稽古、後ほんのちょっと到らなかった。微妙な要を得られなかった。気を抜いてしまったところがあった。集中力が欠けてしまった。などなど、私とて毎回、憮然とする反省点がそれこそ山のようにあります。30年もやっていてその体たらく、多分才能がある人、センスのいい人などは鼻歌交じりでもそういうことがクリアできるのかと思うと、本当に焦燥感やら羨望感やらが渦巻きます。ま、そんな人は数年に一度見かけるかどうかと言う感じですけど。
結局焦っても仕方ない上にリセットもリカバリーも機種変換もできるわけではないので諦観して平常心にすぐ戻れますが、毎回自分の至らなさ、無能さにはほとほと愛想が尽きそうです。
とは言え、そういうことの繰り返しこそが知らぬうちに己を高めているのだと、こればかりは信仰のように思って精進している今日この頃です。
平成二十九年皐月十九日
不動庵 碧洲齋