私はこれくらい稽古をした、などとひけらかすのは駆け出しの証拠だと思っています。
私はこんな風に稽古をした、というのはまずまずですが、それでも中級と言ったところでしょうか。
言外にて語れる、これが本来武芸者としてあるべき姿勢ではないかと思います。
セミナーや特別な稽古に関するブログや、若い内などは大いにかまわないと思いますが、武芸者として日常的にこういうことを書くのは控えたいところです。
ただし格闘技家も別です。興行収入で運営している方々の場合は、超人的な練習量や内容は公表して、ファンを作るべきです。
たとえばケンシロウみたいな格闘技家がいたら強いのでしょうが、これくらいつまらない格闘技興行はないと思います。(笑)
格闘技家の場合は来るべき試合に備えて、盛り上げるのも仕事の一つなので、ここはひとつ武芸者とは別と考えてください。
先生と呼ばれる人々は時折、弟子たちに対して稽古のあり方などを示すべきです。
先生である以上は門下生の教育にはある程度責任がありますから。
武芸者は修行をしつつ、しかし修行に執着してはなりません。
しかし武芸と全く関係のない文を見たときでさえ、感覚的に何かを得ようと努力しなければならないのも修行です。
視覚的、言語的な情報はかなり限定的で固定的です。
この言外に語るという感覚は日本の伝統的な感覚と言うことができると思っています。
私が宗家の稽古に出る際は、この言外の感覚にて何かを得るように努めています。
挨拶という単語は禅より来ています。元は迫って、切り込む、という物騒な意味です。これは師弟間の禅問答をしている様子です。一見仏教とは全く関係のなさそうな禅問答から仏教の真理に切り込んでいく姿勢が重要で、答えそのものはそれほど重要ではありません。人と人が初めてかわす言葉ですら、このように差し迫るほどに真剣であることが、本来真剣勝負しかない武芸においては重要かと思います。
これは「一期一会」と置き換えられるかもしれません。誰にでも何にでも一度だけの機会。しかしその貴重ないっときに、必ずしも普通の人からすれば趣味でしかない「武芸」を語るとは限りません。いや、そうでないことがほとんどです。故に武芸者故に修行だけに焦点を合わせていると、相手から発せられた言葉、対象が見せた現象に秘められた深いメッセージを受け取れないかもしれません。
翻って回答者側で考えれば、言語を用いないことでさらに深い意味を伝えることができるかもしれません。
従って私はいつも、希少な修行時間を一度だけの貴重な時間として稽古をしています。
言外に語るという意味では、双方の力量が試され、かつ必要となります。
要するに「撞木」は「鐘」を必要とし、「鐘」は「撞木」を必要とします。
また、言外に語る場合は、双方はいつでもどこでも油をいっぱいに満たしたさじを片手に、美術館を見て回り、絵画を鑑賞するがごとくの心得が必要かと思います。鑑賞を楽しみ、かつ油をこぼさず。
覚悟をしたり、心の準備をしていたら、希少なる言外の言葉、言外の事象は光の早さで過ぎ去ってしまいます。
今すぐ、ここで、どちらも得なければ得られない、これが武芸における修行ではないかと思います。
そういうことに日々挑戦することは私にとっていつも重要になっています。
不動庵 碧洲齋