不動庵 碧眼録

日々想うままに徒然と綴っております。

残心

大辞泉より
武芸で、ひとつの動作を終えたあとでも緊張を持続する心構えをいう語。剣道で打ち込んだあと相手の反撃に備える心の備え。弓道で、矢を射たあとの反応を見きわめる心の構え。

合っていますが合ってません。武芸の心得がない人が書くとこうなるんでしょうか。以前英訳された「無門関」を読んだことがありますが、禅の心得がない人が英訳したというのがありありと分かったような文でした。少しでも坐った人が書いたならそういう訳にはならないのにと思ったことがあります。

古流での主な稽古では、技を仕掛ける人と技に掛かる人のペアで稽古をします。流派によって色々名称が違いますが、例えば剣術だと前者を仕太刀、後者を打太刀と呼びますが、当流では一応前者を捕り、後者を受けと呼びます。演武などではよく上級者や先輩が打太刀や受けを演じることが多いようです。晴れの舞台で後輩を引き立たせる為でしょうか。

大辞泉では残心の項は仕太刀、捕りの心構えの為の語と定義していますが、私の経験では打太刀や受けにも残心はあって然りです。あらねばなりません。稽古、特に古流では組稽古、型稽古が多いのですが、だからと言ってそれは予定調和であってはなりません。斬り尽くす、突き通す、仕掛ける側にも残心が必要です。予定調和のある、いい加減な攻撃では技を仕掛ける側も正しく身に付きません。仕掛ける側は相手の力量で速さや力加減を変えることはあっても、残心になる程度にキッチリと尽くさねばならないと思います。実際私はそうしてます。相手が正しく避けねば確実に当たる、確実に斬るように動きます。これは相手が先生で在っても同じです。忖度した動作は武芸に於いては迷惑なだけです。

考えてもみてください。多くの武芸の稽古は2時間程度ですが、そうすると半分の時間は受け、半分の時間は捕りに当てられます。捕りが「player」で受けが「supporter」だったとしたら(実際海外ではこの単語が使われているのをしばしば聞いたことがあります)、稽古の半分の時間が無駄になります。受けも捕りと同じぐらいに重要な稽古であるべきです。私如きが言わずとも、多くはそう認識されているとは思いますが、流派を問わず、国内外の武門の方と話していて時折引っかかったので敢えて書かせて頂きました。

稽古に於いては両者各々が主人公として互いに助け合って精進すべきかと思います。

令和参年皐月二十三日
武神館 不動庵道場
不動庵 碧洲齋

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靖国神社で行われた他流演武の一コマ