土曜日は息子の授業参観日で学校に行ってきました。
私が通っていた小学校なのですが、建て替えられていて、中は斬新なデザインになっています。
授業も滞りなく、別段息子が素晴らしい発言をしたわけでもなく(苦笑)、普通に終わりました。
帰りは息子と一緒に通学路を通って帰宅しました。
理由は定かではないのですが、帰路、息子が質問してきました。
「世の中には何で、障害を持って生まれてくる人がいるんだろう・・・」
息子の学校には障害者のための特別クラスがあるのですが、それについてふと思ったようでした。
ちなみに息子は保育園時代にやはり精神的に障害を持ったクラスメートがいたのですが、みんなよく助け合い、その障害を持った園児のお母さんは卒園式に感謝のあまり泣いていたのが思い出されます。
世はITの時代です。手足がなかったり、自由に動かせなくても、昔に比べたらかなり便利になっています。自分でかなりのことができるようになってきました。
それでも科学では決して埋め得ぬような差が厳然として存在しています。
その差は科学では埋められません。それ以外の何かで埋めねばならないものです。
それをどのようにするのか、このような命題と格闘することこそが、文明国としての努めだと思います。
私は昔ダニエル・デイ ルイス主演の「マイ レフトフット」という映画を観たことがあります。クリスティ・ブラウンという、実在の芸術家の半生を描いた作品です。脳性麻痺で左脚のみ僅かに動かせるという彼は、それによってタイプライターを使ってさまざまな作品を書き綴ったそうです。
また、これは日本でもリメイクされましたが、「アルジャーノンに花束を」という作品も知能障害を扱った作品です。これは何度読んでも最後は泣けてきます。これはなかなか有名な書籍なので、是非読んでみてください。
私は息子に言いました。
「それは俺にも分からない。でも手足がなくても人として持っていなくてはならないものを持っている人がいる一方で、五体満足なのに人として決して持っていなくてはならないものを持っていない人もいる。それが何なのかは自分で探してみるといい。」
手足がないことよりも、何がなければならないのか、その方が重要ではないかと思ったのですが、息子もそれには気付いてくれたようです。
「そうか、俺はまだ人生経験が足りないって事だな。もっと経験すれば分かるのかな・・・」
おかしくなってしまいましたが、ありきたりのことを呟いていました。
私なりに答えはありますが、たぶんこれは息子本人で考えるべきものだと思います。もっとも私が10歳の時に比べたら、息子は遥かに答えに近いところに立っているような気がします。私よりもずっと早く、何か真理に触れることができるような気がします。
私はいつもそのようなことを願いつつ、息子を育てています。
平成二五年長月三十日
不動庵 碧洲齋