不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

ネバーランド

と言っても別に「ピーターパン」の話しではありません。
何かというと「~ねばならない」を多用する人たちのことです(笑)
ただ「ピーターパン」に出てくる「ネバーランド」の住民は歳を取らないという辺りは比喩としては似ているかも知れませんが。

私は個人的に「ねばならない」が好きではありません。
正確に言えば百歩譲って自分自身の信念に対して使うのは良しとしても、他人に対して使うのは憚られます。
もちろん、仕事などでは使って然るべきですが、芸事や趣味などでこれを使われたらたまりません。
何度も言いますが「ねばならない」は自分自身にだけ使われるべきであって、自分の法則や規則を他人に当てはめるのは頂けません。
また過去の事例や書物から自分の信念に沿ったものだけを抜き出して正当性を押しつけるのも好みません。

極端かも知れませんがナンパを「技」から「術」ひいては「道」に昇華する人もいるかも知れませんし、伝統芸能を暇つぶし、ただの興味本位でやっている人もいますが是非を問うのは間違いです。
私の場合は「武芸」と「禅」をライフワークにしてますが、現代に於いてはそのアプローチはさまざま、面白半分でも人生そのものでも何でも構いません。今は江戸時代ではないのですから。

坐禅会の折、私の隣に坐っている老人がいます。しょっちゅう居眠りをするし、せわしく手を動かしたりして、落ち着きません。最初の頃は「やる気がないなら来るんじゃねぇよ」とも思いました。が、70過ぎてもまだ、大変な思いをしてざわざわ坐禅会に来ています。迷いがあり、苦しみがあります。老いから来る健康の漸減かもしれません。家族が何か苦しんでいるのかも知れません。彼にとって座禅会に来ることそのものが目的になっているような気がしますが、だから「来るな」とは言いません。これが救いになっていれば禅仏教としては全く問題ないのです。故に「坐禅会ではきちっと坐っていなければならない」ということではありません。誰しも老いや死の恐怖はあります。70歳を超えたら多分、死は身近に感じるものだと思います。

私が観察したところでは「ネバーランド」の住民は基本的に大局的に俯瞰できないようにも思います。
私は多分にスタートレックのファンですが、その中でミスタースポックの故郷であるヴァルカン星には高度な哲学体系があり、それはIDICと呼ばれています。"Infinite Diversity in Infinite Combinations"の頭文字です。和訳すると"無限の組み合わせにおける無限の多様性"でしょうか。これらの調和こそが最も美しい形をしているのだそうですが、分かる気がします。ネバーランドの住民にはこれが理解できないのかも知れません。

私自身、世界中から門下生が訪れてくる流儀に長く籍を置いているが故に体感的にこれを理解できるのです。逆に変えてはならない、文化に依らない重要な普遍的要素も客観的に分かります、多分。

ふと思った次第です。

令和五年臘月四日
不動庵 碧洲齋

ミスタースポック、首に掛けているのがIDICのシンボルマーク