不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

晩秋に想うこと

何か艱難に遭遇したとき、あなたはそれが起こった因縁についてどのように捉えますか?

人心に潜む悪魔の所行か。
偶然を装う天意の試練か。

艱難そのものに実は大した意味はないかも知れませんし、どう捉えてもその艱難自体は変わりませんが、それをどのように捉えるかによって人の真価が分かれる、私はよくそう思います。

悪魔の所行だったら今以上に慎重になり用心を重ね、我が身を誡めるべきと思うのかも知れません。
天意の試練だったらあなたは「天から試練を与えられるだけの価値がある存在」なのかも知れません。

世の中は本当に不公平です。
産まれてから死ぬまでお金に困らない人がいたり、同じく生まれてから老衰で死ぬまで大病や大事故に遭わずに済む人もいる一方で、その逆の人もいます。これはいわゆるナントカガチャと言うのでしょうか。
ガチャというのは宿命として変えることができないと考えられているようで。
また、神は人が乗り越えられないような試練も与えると思います。
実際、事故や事件で幼児がなくなることもあります。
善良な小市民が信じがたいような凄惨な事故や事件に巻き込まれることもあります。

個人的にはそのこと自体には元来全く意味は無いと思います。天意にはもともと意味が無いと言うことです。
神様というと「白いヒゲを生やして白い衣を纏ってアカザの杖を持ち思慮深い老人」というイメージがありますが、もちろんそんな神様はいません。聖書の神などは人間レベルで考えてもかなりワガママで残忍な人格だと思うほどです。
その無為にして無明の天意が下す数々の艱難に意味付けするのは我々人だけです。
故にその起こってしまった事象について必死に考えを巡らせ意義を求め、歯を食いしばってそれを乗り越えようとするその行為が尊いと、私は思います。その一連の行為が神の徴なのかなと思うこともしばしば。

私は禅の修行者であり道家思想に染まっているクチなので、神も悪魔も仏もなにも一緒に口に放り込み、かみ砕いて飲み込んでしまおうという気概ではいますが(笑) 威勢だけはよくしてます。

最近色々身辺でつまらぬことがあったのでふと何気なくしたためた次第です。

令和五年臘月十三日
不動庵 碧洲齋