不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

皐月晴れ

坐って何かを得ようと期待している間は幾ら坐ったところで得られるものはない。

何か特別な見性体験を期待する内は何も起こらない。

師匠が良く言う言葉です。

悟りを得るときは何かピカッと閃いて何か偉大な体験をするように思われそうですが、恐らく印可を受ける程の境涯の深まりというのは多分、そういう特殊な体験を通さない人が9割とかではないかと思うことがあります。

そういう特殊な体験は間違いなくあるとは思いますが、そもそも記録というものはメディアの法則と同じでいかに奇異なことがクローズアップされるかに掛かっています。

戦争も然り、小を以て多を打ち破る作戦ばかり賞賛されますが、現実の歴史では数が多く軍隊を正しく運用した方が9割以上の確率で勝ちます。そもそも戦争などは人命が掛かっていますからバクチのような作戦を採る人はごく少数です。で、そのごく少数が歴史にあって輝きますが、本来はそうでない勝ち方こそが重要です。

ただ坐ることに何の意義があるのかと問われると少し困りますが、坐っていて思うのは人はあまりに社会の一つの部品として動きすぎ、本来自分は何なのか、省みる機会があまりにも少ないという事でしょうか。多分、江戸時代などは情報は少なく、農民でも自省する機会は多くあったのかも知れませんが、現代では情報過多で皆が皆、情報の奴隷という気がしないでもありません。

そういう情報の洪水から短時間でも身を引いて省みる、立ち位置を考える時間があることは重要ではないかと思う次第。禅では別段何か特殊な能力が身に付くわけではありませんが、頭や心の中に多数巣くっているものの中の多くが実は不要なことだったと気付かせてくれることはあります。多分それが禅の効用ではないかと思う次第です。

実際はじっくりと坐っている内に自らという存在が人間社会の中でいかに偶然の産物であるかということを思うことがあります。

そしていかに一度きりの、しかも限りある日々を蔑ろにして生きているかという事も思います。

坐禅で一呼吸にも感謝を感じ、一挙手一投足に敬意や畏敬の念を持てたとしたら、その人の言動はある意味尋常ならざる人物ではないかと思います。

日々の当たり前の事、今目の前のことにのみ意識を持ち全力で当る。多分それの積み重ねが見性体験に繋がるのかなと思ったりもします。いや、それが見性体験そのものかも知れません。

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仏教には「空」というものがあるとされています。

般若心経では「色即是空 空即是色」でよく知られています。

色とは物質で、空の反対の概念と思えばいいと思います。

空はそれだけでは成り立ち得ず、物質すべてに空が伴っているという事と理解してますが、日本語の感謝用語「有り難い」を思い浮かべることがあります。森羅万象万物が「有り難い」もしくは「尊い」そういう感覚でしょうか。全てに神性が宿っている。日本人の感性に一致する考えではないかと思ったりします。

身の回りのありとあらゆるもの、人、生き物、全てが当たり前のように尊い、そういうごく普通のことを心底信じられるような境涯が悟りに近いのかなと思ったりすることがあります。

以上、一在家が何となく徒然と書いてみました。

浅慮の風は何卒ご容赦ください。

平成三十年皐月十四日

不動庵 碧洲齋