不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

最後の城

令和五年弥生十八日
広島県東端に位置する福山市には城があります。
福山駅すぐ脇にある福山城です。

天守閣、形状はオリジナルを踏襲している。



今や日本の各地に通っている新幹線ですが、駅が元城内だったというのはこの福山駅だけなんだそうな。本当に福山駅と福山城は狭い道路を1本隔てているだけで文字通り隣接しています。もちろん新幹線車内からも見えます。

細い道路を隔てて左が山陽新幹線高架線、右が福山城石垣

この福山城は1622年に完成しましたが、近世の城としては一番最後に建設されたものだそうです。いわゆる姫路城や大阪城、名古屋城のようなタイプの城です。福山城以降は太平の世になったということもあり城の必要性が薄れ、作られなくなりました。なので近世城郭としては一番最後に造られた城になります。

明治維新以後、多くの城が破却されてしまいましたが、福山の領民はよほどこの城を愛していたのでしょう、明治7年に取り壊しされそうになったところを住民の請願によってキャンセルされ国宝指定になったようです。ちなみにこの城を建設したのは徳川家康の親類筋にもなる水野勝成公です。なかなかに武勇に優れた方だったようです。なお、幕末の城主はあの阿部正弘公です。いよいよ日本が開国するに当って、大変活躍された老中です。老中と言っても驚くべきことに25歳でその座に着きました。その国際感覚は若さ故だったのかなんだったのか、今時の政治家どもにも引用したい好例です。阿部正弘公自身はずっと江戸にいて福山に入ることはなかったそうですが、おそらく善政が敷かれていたために維新後に民衆からの請願で城が残ったのでしょう。政治家はこのように慕われたいものです。

城自体は小振りで、大阪城や名古屋城、姫路城とは比べものになりませんが、なるほど最後に造られた城だけあって当時の最新技術がぎゅっと詰め込まれた感ありです。実は城はつい近年まで全部オリジナルのまま残っていたのですが、1945年8月8日、長崎に原爆が落とされる前日になりますね、福山にも大空襲があり、その時にひとつの櫓を遺して全焼してしまいました。福山市には重要な軍需工場がありました。なお市民の犠牲者数は354人です。

天守閣は1966年に鉄筋コンクリートで再建されましたが、写真は多く残っていたため再建後の天守閣も全くオリジナル通りです。それは良かった。
この天守閣、他の天守閣にはない面白い特徴があります。それは北側にだけ鉄板が貼り付けてあること。なぜ北面だけに鉄板が貼付いているのかと言えば、それは天守閣がかなり北側に寄っていて、城郭も北側は狭く、場外から砲撃を喰らう可能性があったからだとか。このような設備は日本でもこの福山城だけのようです。再建に当ってはこの装甲板もオリジナル通りに作られました。鉄材は地元の製鉄会社からの寄贈だそうです。地元愛が溢れます。

北側だけ装甲が施されているという変わった城

この城にはもう一つ、ここにしかないものがあります。それは「お風呂」。普通風呂場などは城の奥深くにありそうなものですがこの福山城はなんと天守閣のある城郭の南端に位置しています。そして南側、つまり海が見渡せます(当時は)。さらに風呂場は石垣から少し外に出ているので入浴している間は恐らく空中庭園のような感じだったのではないでしょうか。風呂と言っても江戸中期頃まで主流だった蒸し風呂のようです。また明治以後は料亭として使われたそうですが、料亭として使われても素晴らしい景色だったことでしょう。今でもお茶会などにたまに使われているそうです。もちろん今は目の前に見えるのは新幹線の高架線ですが(笑)

天守閣への入場料は500円、中に入ると階層ごとに色々なテーマがありますが、なかなかイカしたのが乗馬シミュレーター。もちろん無料です。私は少し乗馬の心得があったので中級クラスにしてもらってGO。敵兵は蹴散らしてポイントゲット、ただし敵の盾には突っ込んではいけない。馬の動きは荒いので大変でした。ただ幸いにもパーフェクトでした(笑)

ちょっと乗馬をしたことがある人だったら中級をお勧めします(笑)

最上階は展望室になっています。あいにく曇天でしたがそれでもいい景色でした。
天守閣前にはさまざまな建物があったはずですが、現在はだだっ広い広場になっていて、お祭りなどができるようになっているようです。

この日も出店が畳まれた状態になっていました。

八方松、どの角度から見ても美しいからだそうです。別の場所にあったものを明治に入ってから移し替えたそうです。

福山城は江戸時代から市民に愛され続けてきているようです。
やはり城のある町っていいですね。

令和五年弥生二十四日
不動庵 碧洲齋

福山出立の日、青空がよく映えていました