不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

戦の今と昔について思ったこと

私は甲冑を買ってから12年ほどになります。そしてかなり多くの割合で甲冑を着て実戦に近いような動きもこなしてきました。なので昨今戦国時代ブームに乗じて流行りだしてきた自前甲冑での時代祭以上には甲冑を着て、本来の用途に近いことはしていると思います。

その間に色々な方のアドバイスや知識に接する機会があり、大変参考になったものがある反面、どうも腑に落ちない類の知識やアドバイスもあり。

そういうことで自分の甲冑の着付け方や動きはアドバイスに従ったモノもある反面、自分の体験に基づいているものもあったりします。

今回の流鏑馬の甲冑着付けはなかなかいい参考になりました。

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一般に武術と呼ばれる技法には幾つか大きな転換点があったと言われています。

あまり古い話を持って来ても仕方ないのでざっくりと。

1つは蒙古襲来

1つは戦国時代

1つは幕末維新

1つは大東亜戦争

最初の蒙古襲来から戦国時代が始まるまでが約220年、戦国時代の後から維新までが約270年、維新から先の大戦までが約80年。

何が言いたいのかというと、実戦が多発した後はその考察と反省があり、それら情報の整理編纂を経て次世代に継承されます。そういう節目の後に多くの流派が生まれるのはその為だと想像します。とはいえ、実戦がない時代には当然耳学問、卓上理論に陥りやすく。確立されたばかりの流派にあってはその稽古の便宜のために色々な制約を設けたりします。時代が下るにつれて実戦から遠くなっていく可能性があります。全くオリジナルのままという事は少なくともあり得ないと思います。

戦時中では当然だった風習やしきたりも平時にあっては失われたり、変化したりします。2.3世代も過ぎると「なんでこれはこうなんだろう」という疑問が浮かび上がってくるはず。いくら平安の世の中と大して違わない生活を送っていたとは言え、200年とか300年も時間が過ぎれば継承されたものがすべてどのような意義があるのか、実戦なくして確実に認識することは難しいと考えます。

特に明治時代以後はそれが顕著になります。平安の世から維新まで、人々の暮らしはそれほど多くは変化していませんでしたが、明治以後はそこに大きな断絶があったのではないかと思うほどに人々の生活が劇的に変わりました。維新後から1世紀は大激変と言って良いと思います。

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武芸で言うなら明治以降、戦争に於いては弓や刀、槍で戦闘をすることは皆無。騎馬も戦国の世とは装備も用とも全く異なります。着るものや便利な道具も出てきます。すでに維新から約150年になり、更に言えば刀や槍が戦術の中心として用いられた頃から数えればすでに400年以上が経過しています。

そういう状況下で、未だ多くの流儀がこのたぐいまれなる先進国にて継承されているという事実に何度も驚かされます。外国から見ればこの科学文明の時代に物騒なものを後生大事にして汗水流す姿は、軍事大国まがいかおかしな集団、東洋の神秘と思われるのでしょうが、最近になってようやく日本の文化というものが理解され始めてきたことは嬉しい限りです。

とはいえ、その継承されてきている流儀の内容が全部間違いなく正しいのかと言えば残念ながら違うと思います。これは私の経験ですが、日常生活に即した習慣、所作などは形骸化しているものが多く。武器の繰法に関してもあまりにレアな武器であれば、継承されたと言うよりは好き者が少ない資料を基に見よう見まねで覚えたものも多いのではないかとも思います。筋のよい人はその見よう見まねでも史実に近いような状態になるのではないかと思います。無論流派によってはかなり正確に継承されているものもありますが。

いつだったか某所で槍の演武を見ました。槍は通常の槍ではなく、穂が大変大きな大身槍でしたが、高齢の演武者は力任せに振っていたためそのうち振動が激しくなり、バキッと中子から折れてしまいました。大身槍の構造を考えたらそんな使い方はできないはず。穂が大きい大身槍は中子に負担をかけないよう、真っ直ぐに突き入るか、振り回して穂先で当てる、切るしかないはずです。多分その方は日頃あまり槍を使ったことがないのか、使っても木槍だったのでしょう。

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今回、鹿島神宮で行われた流鏑馬において、少し思うところがありました。

通常、流鏑馬では狩衣を着用して行われますが、今回は甲冑というのが目玉。

流鏑馬の会長さんが曰く「学者先生に色々注文を付けられることが多々あるが、その通りにするととてもではないが流鏑馬の動きには耐えられない」とのこと。

甲冑仲間の話ですが、学者先生よりはずっとよく甲冑のことを知っている本物の甲冑師さんたちですら、実戦に基づいた知識に立脚しているわけではないと言うこと。私のようによく甲冑を着たまま槍を操る人の経験に基づく知識の方がよほど確かなことも多々あるのだとか。

私自身は甲冑について体系立った知識を持っているわけではありません。ほとんどが経験に基づいています。時代祭の仲間内ではやや、実戦の動きは多い方ではないかという程度ですが。

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ということで、

1 学者先生方の主張していることは正しいが、それを高いクオリティーで再現できる人がいないのか。

2 書物に記載されている情報そのものが不正確。

どちらかになります。

実際、会長がコメントしていたことは、乗馬のスタイルや装備などは個々でカスタマイズされたものも多かったのではないかと言うこと。全部が書物にあるような制式の流儀のままで実戦に戦えるとは到底思えず、とか。今回の様子を見て私もそう思いました。大まかに決まり事はあっても細かい所は本人の体格や馬の性格でも変わって然りです。

今回の流鏑馬では5.6人の甲冑武者が一度走る度に確認して、緩みや不具合を手直ししました。着付けもさることながら、このサポートも大変でした。

特に今回、流鏑馬の武者が着用したのが大袖鎧、戦国時代以前の甲冑です。戦国時代の当世具足ならあるいは比較的容易に取り回しが利いたかも知れませんが、大袖鎧はとても乗馬に向いているとは言いがたく。ホントに乗馬のままで弓を絞っていたのかよと疑いたくなります。そもそも当時と今の馬の大きさも全然違いますから。

甲冑にしても、なるべく当時のままのものがよいと思っても、例えば当時の大袖鎧などほとんど残ってません。残っているのは奉納用とか自宅に飾って威儀を正すためとか、そういう用との甲冑ばかりで、最前線でガチバトル中の大袖鎧などと言うものはほとんどないに等しく。今、我々が買う事ができる甲冑はいかほど当時の戦闘に使われたオリジナルに近いのか、はなはだ疑問です。

仲間がいい喩えを話していました。

数百年後、もし人類が滅んだとして、他の知的生命体が地球を探索したときに、人類がフェラーリとかランボルギーニとかポルシェばかり乗っていたと勘違いするのと同じだと。そんな感じかも知れません。

故に例えば甲冑を着て演武をする、にしても一体どれ程再現性があるのか時々疑問には思います。

弓をよく使う人はもしかしたら右袖は付けていなかったのかも知れない。

中程度の槍を遣う人ならそれ以外は脇差しだけを持っていたのかも。

そもそも長期戦なら胴丸も後ろはなくてもいいんじゃないかとさえ思います。前胴だけの方が合理的な気もします。戦国期のような集団密集戦法なら前胴だけでも十分な気がします。甲冑武者には何人か従者がいますから全身ガッチリと着込んで戦闘力を落とすよりも、少しでも軽くして動けた方が便利な気もします。大げさでしょうか。

甲冑そのものも今でこそ極薄の鉄板を以て自在に作ることがきますが、当時は違います。一部は革製だったりして重量軽減に努めていました。故に当時と今の甲冑の重さはかなり違います。さっきも言いましたが、奉納用や家での装飾用は言うまでもなく実用ではないのでいくら重くても構わないですし。

・・・と、ここまで違うのですから例えば流鏑馬などではカーボン製やプラスチックを多用した甲冑でもよいと思ったりしました。(参加者の方々もそう思った人が多かったようです)その方が安全ですし、疲労も少ない。まさかカーボン製やプラスチック製の甲冑だと鹿島の神様が許してくれないなんて事もないと思います。

私がよく行うバトルは本気で甲冑にガンガン当るので、これは本当に金属製の甲冑である必要はありますが、用途によっては金属製である必要はないと考えます。(しかもくどいようですが金属製=オリジナルに近いもの、ではありません)

現在の武芸に関する行事のうち、時代祭とか流鏑馬のような神事の場合などは現代の素材を用いたより安全で使いやすいものでもよいのではないかと思いました。

以上はちょっとかじったことがある程度の素人の戯言ということでご了承下さい。

平成二十八年皐月四日

不動庵 碧洲齋