(1866年3月14日~1961年6月3日)
今朝は起床がやや遅れてしまったのでそのまま勉強はせず、数日前から読み始めていた山本玄峰老師の本を読んだのですが、付録として縁ある方々から寄稿されたエピソードの一つに非常に吸い寄せられました。
その方が仕事で、画竜点睛を欠いたというか、完遂できなかった旨を老師に報告したときのようです。
「私の力が及びませんで・・・」
寄稿者がそのように言うと、老師は
「それは力が及ばないのではなくて、徳が及ばなかったのでしょう・・・」
とおっしゃったそうです。
私はこの話に対してすっと収まるものを感じました。
その昔、中国史を紐解きはじめた15.6の時は「徳」と言うと、なにやらその人から発するオーラというか、雰囲気のように思っていましたが、禅を始めてからそれが具体的な姿を伴って理解できるようになりました。
万物が仏の現れ方の一つ、日本人でしたら神の現れ方の一つでも構わないと思いますが、とにかく人はもちろんのこと塵一つにもそういう真理を知り、畏敬の念を持つことが徳ではないかと思います。
そう思うことによって、万物を愛おしみ、大切にします。例えば僧堂では朝、顔を洗ったり口をゆすぐ水はコップ一杯と規定があるそうですが、自然のものであっても(自然のものであるからこそ)余計なものは一切頂かない、そういう考えに成り立っています。これが単にストイシズムに則っているだけなら馬鹿げていますが、そうではなく、尊い仏の一つの現れを最小限にお借りするという姿勢、これを言いたいのだと思います。
これをスケールアップすれば資源開発にも当てはまりますから、多分この真理は間違いないと思います。
玄峰老師も宿に泊まったときなどは最初に使った割り箸を丁寧に洗って、次回に割り箸が出てきたときには洗った割り箸を使ったとか。また、宿にせよ寺にせよ、履き物を揃えたり、きれいにしたり、しかもそれらを人が見ていないところで何気なくされたそうです。これは単に「禅僧はきれい好き」だと割り切る前に、私たちがいかに自然のものを借りて使っているかと言うことを自覚する所作ではないかと自省してみたいところです。
私もここ5.6年はなるべくそう努めていますが、坐禅会にて師事している両老師の所作を見ているととてもとても。クタクタに疲れ切っているところに玄関が自分のものでない履き物で散らかっていたり、リビングのテーブルで自分が使っていないもので散らかっていたりすると、今でこそ片付けこそしますが、イラッとしてしまうこともたびたびあります。その度に反省します。
全部が有難いはずなのです。全部が尊いはずです。クタクタに疲れ切ったところに現れるというタイミングも、面倒も、本来は多分有難いはずなのです。しかもそれは「私専用」にカスタマイズされたものではもちろんありません。大自然というか仏は「私」如きのためにいちいち何かをカスタマイズしてはくれないのだということは愚鈍な私の頭でも理解しはじめています。だからそうであろう事を期待して粛々と事に当ってはいますが、そういう意味ではまだまだ文字通り「徳」が足りません。
昔の人が良く使っていた「陰徳」とはよく言ったものです。感心しています。
例えばそれを武芸という側面から見れば「武徳」になりますが、技術的にあらゆる事に無意識に配慮が届くなんていう武芸者がいたら、文句なしに天下無敵の人です。多分、昔にはそういう人が多くいたのでしょう。そしてそういう人には、本来の意味の「徳」がどんなものか分かっていたのだと思います。
「修行」という言葉があります。私も好んで使います。
行を修めるの意味ですが、もっと砕いて言えば「行間において人格や行いを正しくさせる、心や言葉が乱れないようにする」の意ですが、それらは全て徳を高めるためではないかと思います。
この玄峰老師のエピソードで我が身の修行にて目指すものが、より鮮やかになって参りました。これもひとえに老師の御遺徳ではないかと感謝します。
平成二十六年神無月二十四日
不動庵 碧洲齋