不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

指南の難しさ

一昨日は昨日は師が膝の手術で入院しているため、兄弟子が指導に当りました。

私よりも3.4年長いキャリアを持っています。

指南を受けていた人は8人、そんな多くはありませんが、やはりこういうときは先生の指導力の偉大さが分かろうというものです。

とある流派では稽古のほとんどを宗家の受けをする稽古に時間を費やしています。それはかなり贅沢な稽古の方法です。しかしながら当流では当然そんなことはできようはずもなく。古参としては周囲に気を配りながら稽古相手と稽古をするだけでした。

基本的に私は武芸と言わず、伝統芸能は大量生産を目的としているわけではありませんから、少数精鋭であるべきだと思っています。私自身、自分の門下生は少人数です。大人数に教えられる技術はあくまでプラスアルファであって、必須ではないと考えています。一歩譲って、段位が上がるほどに少数精鋭になっていく教え方の方がより高い質を維持できると考えています。

そういう意味でジェダイの騎士がマンツーマンなのには感心します(笑)。

武芸の玄妙な動きというのは決して大人数クラスからは知るよしもありません。

もっともどんな状況でも学べるという対応能力も問われますから、これでないとダメだという人は武芸者に向いてないとも言えます。そもそも万全な環境下で何かができることなど人生で何度もありませんから。

禅ではざっくり二つの教え方があると言われています。

重要な部分は敢て伏せておき、じっくりと時間をかけ自ら拈提(工夫参究すること)して、見照せよと放下される、いう考え。

一つは懇切丁寧に教えを導き、最後に悟らねばならないという部分は言葉ではないので、導かれたものは最後の部分だけは自ら得なければならないという考え。

偶然にも今現在師事している禅の師匠は一人は京都妙心寺印可を受けた老師、もう一人は鎌倉建長寺印可を受けた老師なのですが、二人の教え方が全く逆なのでなかなかおもしろい。(京都と鎌倉の僧堂では教え方のスタンスが異なるそうです)

どちらが良いというものではありません。ぱっと見、後者の方が親切だと思われがちですが、とんでもない。禅の言わんとするところは非言語の世界です。つまり、懇切丁寧に言葉で最後まで導かれて「さあ、後は非言語で」と言われてもこれはなかなか難しい。さりとてあっちこっち虫食いのように「後は自分で拈提せよ」と言われると不親切極まりなく感じたり、エラく無責任な教え方とも思えたり。

強いて言うと私の教え方は影響の強い師匠と同じく後者ですが、自分で教えていて確かに玄妙な部分は非言語なので逆に意地が悪い教え方になっていると思わなくもありません。より混乱を与えているとも思えることさえあります。以前、他流の武友の方が良く言っていたのが「技を盗む」。ある意味正しいと言えます。かなり神髄に近い部分まで説明しているのですが、欧米人に納豆の素晴らしさを無言で教えようとしているようにも思えます(笑)。(納豆のうまさを理解する外国人は、やはりある意味偉大だと思う・笑)

と、キャリア「だけ」は長い私も、人様に何をか教えるときにはこのくらい思い悩んでいるということです。後輩の皆様、この「非言語」の妙を自分で何とかして得るように精進してください。

平成二十五年神無月四日

不動庵 碧洲齋